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2017年06月15日13:21

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時間の非実在性について

永井均さんの「時間の非実在性」は、英国の哲学者マクタガートによる時間に関する有名な論文の解説書である。これがなかなか難しい。老化した脳細胞には錯綜した概念分析になかなかついて行けない。

禅仏教にも時間論はあるが、時間そのものを概念分析するなど、まどろっこしい説明などしたりしない。「ただ今、即今」、それだけである。西洋哲学はその点ちょっと面倒である。マクタガードは時間を概念分析した結果、「過去ー現在ー未来」(「A系列」と呼ぶ)という把握の仕方が本質的であるとする。そして、次にこのA系列が矛盾していることを証明して、時間が実在しないと主張するのである。

しかし禅仏教では、このA系列はしょっぱなから直感的に否定される。虚心坦懐に反省すれば、過去や未来は現在(今)と対立するものとしては見られない。過去は単に記憶で未来は想像にすぎず、それも今想起されるべきものだからである。過去も未来も今の中にしかない。「過去―現在―未来」という系列が成立するためには、過去、現在、未来が同等の資格をもつ存在者でなくてはならないはずである。禅仏教から見ると初めからそのような図式は成り立たない。

現在を「存在者」と言ったが、すべてが「今」であるということになると実はそれが怪しくなる。すべてが「今」なら、「今」が何であるか識別できなくなるからである。究極の所与のものに対する言及の困難さが、禅仏教におけるもともとの中心課題でもある。

永井さんの著書においても、「端的な今」とか「今の今」とかいう不可解な表現が頻繁に出現するが、「今」がなんであるか分からなければ、「端的な今」とか「今の今」もなにを指しているか分からないのである。もともと概念化できないものを概念化しているので、分かったような分からないような表現になってしまうのである。

その結果、「端的な今」が時間軸座標の上を過去から未来へ移動していくという図式を無理やり描くことになる。これが、時間が動くとか流れるという表象につながるわけである。しかし、断じて「今」は動いたりしない。おそらく動いている「今」を見た人などいないはずだ。動くのは、人や車などの具体物である、「今」は動かない。流れるのは川の水であって、決して時間は流れない。「今」や時間というなんらかの抽象物は決して動いたり流れたりしないのである。

時間軸というのは時計の針の先端の軌跡を直線状に写像したものであり、その直線状を動く「端的な今」というのは時計の針の先端であるにすぎない。人は「端的な今」を時計の針の先端に重ね合わせているのだ。
それならば、『時間とは時計の針の動きである。』と定義してしまった方が、ものごとはより明確になるはずだ。それで我々の生活には何の不都合も生じないはずである。

「端的な今」という所与のものについては、また改めて詳しく述べてみたいと思う。
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