永井均さんの「哲おじさんと学くん」の「第49話 そもそも存在しないものでも「絶対確実に」存在できる」に次のようなやり取りがあった。
【引用開始】
学 : でも、例えば小説の中の登場人物がデカルトのように考えて、「私は今確かに思っている、だから私は存在している!」と言ったら、どうなる?
哲 : そいつがそう思ったなら、そいつは間違いなく存在する。ただし、もちろんそいつにとっては、だが。
学 : 「そいつにとって」はだとしても、「そいつ」なんてそもそも存在していないのに?
哲 : いや、その小説の中では、そいつは存在する。ただし、そして、そいつがそう考えた以上、そいつはそいつ自身にとって疑う余地なく、絶対確実に存在する。
学 : でも、それは本当の存在の仕方じゃないよね?
哲 : それが本当の存在の仕方ではないと言うなら、小説の中ではなく、この現実世界において、誰かデカルトのように考えた場合だって同じことではないか。その人が、「私は今確かに思っている、だから、私は疑う余地なく存在している!」と言ったとしても、所詮は言葉の上でのつながりに由来する確実性に過ぎないのだから、疑う余地なく存在するその存在の仕方は、疑う余地がないにもかかわらず、本当の存在の仕方ではない、ということになるだろう。
【引用終了】
確かに、デカルトについても私は伝聞によって知っているだけなので、そういう意味で小説の中の人物と同じと考えられる。しかし、言葉の上の関係性の中だけでの形式論理の運用にはなにか警戒しなければならないものがあるような気がする。言語哲学にはなんか釈然としないものを感じる。
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