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2017年05月27日12:31

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初めて入手した“新証言”をありがたがるだけでは、ドキュメンタリーは成立しない。テレビ朝日「あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 〜連合赤軍45年目の新証言〜」(2017)。

制作側は、事件当時“少年A”と報道されていた人物を口説き落とし、あの事件について語らせることに成功した、とこのドキュメンタリーを作った意義を強調します。しかし番組内では“連合赤軍事件”を“戦後初めての”陰惨な事件という見地からしかとらえておらず、“彼らがなぜ、このような事件を起こすに至ったのか、メンバー側から掘り下げることはあまり行われてこなかった”(番組の宣伝文)と語っているけれど、今回もまた彼らの“なぜ”に迫ることはできませんでした。

かつての少年Aが事件に対して口を開いたという事実は、この事件の今までのいきさつの中では貴重なことでしょう。しかし、彼が“口を開く”ことが重要なのではなく、その取材によって連合赤軍事件の“なぜ”に迫り、それを明確に批判することで、後に続く世代が同じ過ちを犯さないようにする、それが制作者の使命だと僕は考えます。

しかし残念ながら、連合赤軍事件の関係者が何を思い、どうしてあの行動に出たのかは明確に語られません。それは当然で、制作者の側にその行動を理解する考え方が存在していないからです。だから当事者が事件についていろいろ語っても、事件の内容を深く掘り下げることはできない。そもそもこんなドキュメンタリーなら、作らないほうがマシです。

その理由は明確で、番組の大半が浅間山荘での篭城・銃撃事件の流れであり、逮捕後明らかになった仲間へのリンチ殺人事件の詳細で、新聞報道で行われた事実をなぞっているに過ぎない。それに対して、当事者はやはり、簡単には口を開きません。それは当然で、被害者の親族から“安易な反省なら、しないでくれ”と言われているわけです。←これを言った親族の思いには敬意を表しますし、“だから安易な反省はしない”と言う当事者も、なかなかです。

だからこそ僕は、このドキュメンタリー制作者が、“安易でない反省”を引き出せなかったことを責めたい。それができないなら、ドキュメンタリーとして今番組を作る資格などないのです。作ったところで、興味本位の週刊誌記事と同程度にしかならない。

では、何をどう描くべきだったか。それもまた僕には明確です。彼らが当時、“宣戦布告”して“革命戦士”を目指した、その基盤となった考え方を論破すればいい。もちろんマルクス=レーニン主義を論破することは、テレビ局のスタッフには無理かもしれない。←できる人がいたら、世界の思想史はすでに大きく変わっていますから。

ひとつ言えることは、“革命戦士”をめざしたというその方向性の間違いを指摘することなら、誰にでもできると思うのです。つまりマルクスが生きていた時代は、“命を懸けて何かをなす”という“常識”がありました。しかし第二次大戦を経て、いかなる戦争においても命を落とすのは犬死だ、という論理が明確になった。だけど“あの時代”にはまだ大義のためには命を懸けるという“美徳”が残っていたのです。

すでに何度も言ってますが、命を棄ててもいいと考える行為は、考える行為が命あることを前提にしているので、これは矛盾です。矛盾した行動というものは、ときおり実社会に現出するわけですが、それは間違っている。そのコンセンサスを社会的規模で確保しないと、似たような過ちは続くと僕は思います。

しかしまぁ、テレビ局で番組を作っている人って、たぶんいい暮らしを楽に得ているんでしょうね。この程度の番組を見せられると、そういう嫌味の一つも言いたくなってしまうのでした。蛙の面にションベンですけどね。
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