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2017年04月08日16:33

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哲学的懐疑論は論駁できないが…

実は、我々の世界観というものはもともと論理によってできているのではない。それは経験からくる信憑性によってできているのである。その辺のことを理解しないで哲学をすると底なしのニヒルに引きずり込まれることになる。

確かに私は他人の意識の中に到達することはできない。疑おうと思えばいくらでも疑える。隣人が魂のない、ただ機械的に私に応対しているだけの、いわゆるゾンビではないかという論理的可能性はどのようにしても払しょくできない。そのような懐疑に取りつかれると独我論者になってしまう。

哲学をするような人は過度に論理的根拠を求めるのだろう。しかし、元々あるはずのない根拠を求めてもそれは無理である。そもそも独我論の論理的可能性を排除できないといっても、そんなものを積極的に受け入れる理由というものもまた無いのである。論理的可能性があるものはこの世に無限にあるのだから。

独我論に取り込まれるのは、お化けを恐れることによく似ている。お化けなんて論理的ではないという人がいたら、その人は「論理的」という言葉を勘違いしている。お化けはその存在の論理的可能性が排除できないから怖ろしいのである。まともな科学者ならまず「お化けはない」という云い方はしないはずだ。

お化けも独我論も、この世界に対する信頼性が薄い場合には十分脅威であり得る。大人より子供の方がお化けを怖がるのは、この世界における経験値が少ないからであろう。大人は長い年月にわたって、この世界に対する重層的で頑強な信憑構造を、編み上げているからである。

その信憑構造に照らし合わせると、お化けの論理的可能性は排除できなくとも信憑性は薄いのである。信憑性のないものをいちいち怖がってはいられない。
独我論もまたお化けと同様であって、普通の人にとっては信憑性の薄い仮説にすぎない。

しかし、頑強な信憑構造とは言っても、所詮それは信憑によって支えられているわけだから、鉄壁というわけにいかない。どうしてもその根拠が必要な人のために宗教はあるのだろう。人は神という根拠を得て初めて安心できるのかもしれない。
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