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2017年02月08日07:04

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辺境

 「よそ者が旅をするのに不便で危険な場所」と「辺境」を定義したら、人種差別が横行する地域は、たとえ文明国の中であっても「辺境」と呼べそうな気がします。たとえば今のアメリカはもしかして「辺境」が拡大傾向に?

【ただいま読書中】『「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」』大前治 著、 合同出版、2016年、1800円(税別)
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 「全市物凄い戰争氣分」。昭和3年大阪で4日間にわたって行われた「近畿防空演習」を伝える大阪朝日新聞の見出しです。当時はまだ「日本が空襲される」などは「あり得ないこと」でしたが、戰争に向かって挙国一致体制を作るためには危機感を煽る「防空演習」は非常に重要なイベントだったわけです。その演習が始まった日の大阪朝日の朝刊一面は「空を見よ、敵機来る けふ! 始まる防空演習」と並んで「特高警察網を張り警務官制設置の理由」「共産黨事件を轉機に無産運動漸く沈衰」と見出しが見えます。「各県に特高警察を置いて社会運動の取り締まりを強化する」「戦争反対や民主主義を求める「反社会勢力」が行う無産運動が沈衰した」と「防空演習」が並んでいるわけで、後世の眼からは実にわかりやすい構成となっています。
 全国各地での防空演習が一巡した昭和12年、「防空法」が公布されました。内容は「防空訓練」と「監視・通信・警報のための施設整備」。これにより、訓練参加は「国民の義務」となりました。国は施設整備はろくにしなかったんですけどね。
 ……「防空」とは本来「国家の仕事」のはず。それがいつのまにか「国民の仕事」になっています。しかし、「灯火管制違反の罰則」が「300円以下の罰金、拘留または科料」とは厳しいですね。300円と言ったら当時の教員の初任給5箇月分です。準公務員の警防団も組織されました。昭和14年4月1日に東京市内で15万人が組織されていましたが、男は次々戦地に送られて人手不足となり、やがて女子供も動員するようになりました。
 「防空ゲーム」という、爆撃機を駒とした双六が発売され、「防空の歌」という愛国歌も発表されました。家庭から防空意識を高めよう、というわけです。
 昭和13年、内務省は「空襲での避難禁止」(老幼病者は例外)を通達します。国会審議の時にはそんな話は全然なかったのですが。さらに昭和15年、例外は「特に認められた者」だけに限定されます。つまりは特権階級、ということでしょうか? あとは「街を守れ」。なお、財団法人日本防空協会の理事長は、戦後A級戦犯として投獄・釈放後、財団法人電力経済研究所の顧問になって原子力発電所導入に活躍したそうです。
 昭和13年の啓発ポスターが載っていますが、すごいですよ。関東大震災は100箇所からの出火で大災害になった。爆撃機は5000個の焼夷弾をばらまく。さあ、どうする?とあって、示された解決法は「屋根を突き破ってきた焼夷弾を屋外に放り出す」「回りに水をかけて延焼を防ぐ」。毒ガス弾に対しては「新聞紙で窓を目張りする」。「原爆に対しては、白シャツを着たら熱線は反射される」を私は思いだしてしまいました。
 防火のために具体的に準備されたのは、バケツ・ひしゃく・砂…… 江戸時代ですか? 施設の不備を突いた国会質問に対しては「精神で補う」という答弁がされています。
 昭和16年11月防空法は改正され「逃げるな、火を消せ」が法的義務と明記されます。違反者には最大で懲役6箇月または罰金500円。実際にこの罰則が適用された例はなかったようですが、挙国一致体制で法律に明記されただけで威嚇効果は絶大です。同時に「処罰されても逃げた方がマシ」と考える“不心得者”の出現を防ぐため、「逃げるものは非国民」キャンペーンが展開されました。法と道徳の二正面作戦です。そのために「隣組」が使われました。組長が誰も避難しないかどうかチェックしたのです。配給物資も町内会や隣組で配られますから、これは実に有効なやり方です。
 「戦時災害保護法」では空襲被害者への救助・扶助・給与金が規定されました。国民の士気高揚のためでしょう、当時の生活保護制度よりも手厚い給付となっています。これが戦後さっさと廃止されたために、空襲被害者は長く苦しむことになりました。
 昭和18年大阪帝国大学の淺田教授(物理学)は『防空科学』を出版、そこで「第一次世界大戦で使われたエレクトロン焼夷弾は15〜20秒で周囲を燃え尽くしてしまうのでそれまでに駆けつけて消火するのは無理。テルミットはマグネシウムの燃焼で水をかけると爆発をする。黄燐焼夷弾の黄燐は有毒なので決して皮膚につけてはいけない」と警告を発しました(まだナパームは知られていなかったんですね)。しかし、「逃げるな」「猛火に飛び込んで消火をしろ」「地下鉄の駅は待避所(防空壕のこと)としては使用禁止」という政府の方針は1ミリも動きませんでした。
 昭和19年6月16日今の北九州市に空襲がありましたが、日本に対する大量の焼夷弾爆撃が初めておこなわれたのは、昭和19年10月10日那覇をはじめとする沖縄県各所に対してでした。那覇では市街地の9割が消失、大量虐殺に対して日本軍も政府もなすすべがありませんでした。しかし報道では「隣組の消火が間に合わなかったから大火災になった」と、被害の責任は国民にあると言わんばかりでした。そして美談(手袋をはめて手づかみで焼夷弾を処理した、とかの「防空戦士の武勲」)が語られるようになります。さらに政府は、生産力のさらなる低下と輸送へのプレッシャーを恐れたのか、都市からの疎開を禁止。
 米軍は、爆弾ではなくて紙の“爆撃”もしました。この都市に空襲をするぞ、という予告ビラです。日本政府は「ビラを信じるな。そもそもビラを読むな。発見したら警察に届け出ろ」と命令します。もちろん避難など御法度。10万人が死亡した東京大空襲の翌日に内務省は内務省令第六号「敵ノ文書、図書等ノ届出等ニ関スル件」を決定、即日施行しました。これは敵の空襲予告ビラを警察に届けない者を最大3箇月の懲役刑に処する、というものでした。ポンプや消防自動車の配備はしないのに、こういった決定だけは実に迅速です。
 業火から避難する人を、「逃げてはいけない」とサーベルを振り回す警官や日本刀を持った在郷軍人や警防団員が阻止しました。暴力に怯えて引き返した人たちを迎えたのは、素手では対抗できない火の海だったのですが。昨年読んだどれかの本には、旧制中学生が警防団に徴用されて「空襲から逃げる非国民をここで阻止しろ」と命令されたのを、「この状況じゃ無駄に死ぬだけだ」と通過させた、という話もありましたっけ。ささやかとは言え、真っ当な判断ができる人もいたようです。
 昭和21年9月戦時災害保護法は廃止。そしてGHQの占領終了後の昭和27年4月に戦傷病者等援護法が成立して、元軍人・軍属への援護は復活しました。さらに28年には軍人恩給も復活。しかし、空襲被害者は放置されたままでした。ちなみに、ドイツ・イギリス・フランス・アメリカでは、軍人でも一般人でも戦争の被害者は援護が受けられます。


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