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2017年01月21日07:15

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香港ドル

 まだ香港が中国に返還される前、「香港ドルは国の中央銀行が発行しているものではない」と聞いて驚いた後、そういえば香港には政府も中央銀行も無いのだから当たり前だ、と納得したことがあります。逆にそういった状態で独自通貨を流通させているのは大したものだと感心しました。というか、今でもまだ国際的に通用しているんですね。「ここは中国でも英国でもない、香港だ」と通貨が主張しているわけで、なんだかとっても不思議な制度に思えます。

【ただいま読書中】『香港「帝国の時代」のゲートウェイ』久松亮一 著、 名古屋大学出版会、2012年、5700円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4815807094/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4815807094&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 本書で扱われる時代は、19世紀半ば〜20世紀前半、つまり「帝国の時代」です。実際には、大英帝国だけではなくて、ドイツ・ロシア・オーストリア・オスマントルコ・清などの帝国が軒並み斜陽〜解体に向かった時代ですが。そして「香港」は「国家という枠組みを離れた存在」として位置づけられています。本書で重視されるのは「(人、もの、金、情報の)流れ」です。これを学問的に論じるのはなかなか難しそうですが、上手くやるととてつもなく面白い解説になるだろうという予感がします。
 現在は「グローバリゼーションの時代」ですが、実は19世紀も「グローバリゼーションの時代」でした。大英帝国から見たら「香港」は「古い中国に開けた自由貿易のための窓口」でした。そして中国から見たら「世界中に労働力を送り出すための集散地」だったのです。移民や華僑によって、世界のあちこちに「中国経済圏」が拡張していきました。それはまず「華人」の移動によって形成され、その後「送金」によって金融ネットワークが形成されていきます。
 もともと河南では伝統的に交易が盛んでした。17世紀には「銀号」という「預金、貸し付け、為替、両替、投機」などを手がける地場の金融機関がありました。ただしこれらの金融機関は「信用」を基礎としていて、親類や一族、ギルドの繋がりを最重要視していました。そのため、19世紀に生糸が盛んに輸出されるようになりますが、「金融」は広州から香港に簡単には移転しませんでした。しかし、1856年の広東大火と「香港ドル」の成立が、世界を変えてしまいます。
 日本でも開国当初はメキシコドルが流通していましたが、香港でも同じでした。それ以外にも、スペインドルやイギリスポンド、東インド会社の貨幣、中国の貨幣などが使われていました。特に人気があったのが「ドル」系の貨幣だったため、植民地当局も「ドル」を公認せざるを得ない状況でした。1863年に勅令で「ドル」を公認、さらに紙幣発行銀行を1911年までに3つの銀行に限定して認めました。多種多様な通貨を使うのは煩雑ですから「香港ドルだけ」の金融体制はあっという間に確立し、香港で銀号が発展することになります。
 マレー半島一帯から中国への送金は、シンガポールを経由していました。シンガポールは香港と接続することでお互いに利益を得ることになります。香港からは広州やマカオにも金の流れがありましたが、太い流れは上海ルートです。お金がまるで航空機のように、一定の航路を飛び“ハブ空港”に降り立っているかのように地図に描けそうです。
 日中戦争が始まると、香港の金融的地位は重みを増しました。上海事変で上海ルートが途絶すると、漢口=広州=香港ルートが活発になります。さらに華南に戦乱が及ぶと、マカオなどとの密貿易ルートが活発になります。そして41年12月の香港陥落後は、マカオが「ゲートウェー」としての機能を担うことになりました。
 これからの香港は、金融だけではなくて文化のゲートウェイとして機能したら、これからの中国と世界全体に、有意義な役割を果たせるのではないか、と私には思えます。今の中国はとっても“不健康”な状態に見えますが、自力でそれを直すのはとっても難しそうです。だったら「ゲートウェイ」から流入するナニカに頼ったらどうか、なんてことを思うのです。


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