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2016年12月26日07:02

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私の「原罪」または「業」

 私の肉体の何%かは、過去に食べた食肉(の栄養素)でできています。別の何%かは魚、あるいは穀物、野菜、果物…… 植物でも動物でも「生命」を頂いて私の生命は成立していますし、いつかは私の生命もその循環の中に還って行きます(というか、私の肉体(のなれの果て)はすでに「自然界の食物連鎖」の一部を構成しているんですけどね。私の肉体の死滅した部分やあるいは生きている部分でさえ微生物のエサになっていますから)。「原罪」とか「業」とか言いますが、私にとっての“それ”は「私が食物連鎖の中にあること(他の生命を頂いていること)」です。だから屠畜する人を差別したり屠畜方法を残酷だと非難することで“免罪”をしてもらおうとは思っていません。そんなことをしても最初から無駄ですから。そもそも、母親から胎内で栄養をもらい、母乳を飲んだ時点で、「生命を頂く」に関しては皆“有罪”なのでは?(人工ミルクの人についてはまた別に考察をします)

【ただいま読書中】『世界屠畜紀行』内澤旬子 著、 角川書店(角川文庫)、2011年、857円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4043943954/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4043943954&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 肉は美味しく食べるのに、「生きものが肉になる過程」からは目をそらすことの不思議さに、著者は“それ”が日本だけのことなのか、それともよその国でもそうなのか、もしそうならそれはなぜか、そうでないならそれはなぜか、を個人的に追究しようとします。動機を語る口調は非常に軽いのですが、その行動の“意味”はとても重いもののように私には感じられ、そのギャップがまた面白く感じられます。
 まずは韓国。ここでは屠畜に携わる人は「白丁(ペクチョン)」と呼ばれて、日本と同じくひどい差別を受けていたのだそうです。ところが著者が韓国の友人知人に聞いて回っても「そんなことがあったらしいね。今はないけど」という反応ばかり。ところが実際に屠畜をしている現場の人に聞くと「結婚は難しいかも」と。なんだか「肉になる過程から目をそらす」のと同様に「差別からも目をそらす」のか?と私は感じます。ただ、韓国では朝鮮戦争で全土が焼かれ差別地域も過去の戸籍ももうぐちゃぐちゃになってしまったので、実際に「過去」を手がかりに差別をしようとしても難しい、というのも現実のようです。屠畜現場の人間に対するぼんやりとした忌避感は漂っているようですが。
 バリとトルコでは「殺す」ではなくて「切る」という単語を用います。そう言えば日本では「殺す」ではなくて「つぶす」ですね。やはり直接「殺す」とは言いづらいのでしょう。
 家庭で日常的に屠畜をする所でも、エジプトでは小さい子供にその過程を見せますが、チェコでは見せません。それぞれに「教育的見地」からの意見があるのですが、著者はその“優劣”を簡単にはつけません。そうそう、チェコでは「肉屋に対する職業差別」はありません。社会主義のときには、インテリは差別されていましたが、肉屋は「肉の中で最上のものを届けてくれる」ということで尊敬されていたそうです。
 モンゴルでは「オルルフ」という「羊の胸部を少し小刀で切ってそこから手を突っ込んで心臓のそばの大動脈を指で捻り切って体内に放血させる」方法があります(草原を汚さずに済むし、血の一滴も無駄にせずに済みます)、モンゴルからやや西のトルコ系遊牧民は頸動脈を切って放血します。そしてお互いの方法を「残酷だ」と非難しています。イスラムではイスラム法で屠畜方法が定められていますが、オルルフもモンゴル帝国時代に法令で定められたもので、だから「自分たちの方法が絶対」なのでしょうね。で、現代の動物愛護団体もまた「自分たちの信条が絶対」で「屠畜方法が残酷だ」と非難をするのです。
 「非難される」と言えば「韓国の犬鍋」。ということで著者はまた韓国に出かけます。何度も味わってはいましたが、屠畜の現場は知らなかったから。ついでですが、動物愛護団体は韓国には熱烈に抗議をするのに北朝鮮や中国(どちらも犬肉を食べています)には抗議をしないのは、韓国が牛肉輸入国で犬肉食を禁止したら牛肉輸入量がもっと増えることが期待できるからではないか、という分析も本書には紹介されています。
 もちろん日本の屠畜場も紹介されます。この部分で印象的なのは、流れ作業の合理性と職人の凄腕による「効率」のすごさと徹底的な「検査」です。ここまでに紹介された「家庭で行われる屠畜」とは発想が違います。検査も、最初に外見をチェックし、血液検査、解体後の内臓と頭部の検査、と何重にも行われていて、病気の肉が市場に出回らないようにされています。ありがたいことです。あまりに大規模なため、著者は芝浦屠場に半年以上通い詰めて、ラインの構成を頭に入れ作業員と仲良くなり、精密なスケッチを何枚も描きました(書き忘れていましたが,本書の魅力の一つは、著者の精密だけどやわらかい雰囲気の画の数々です)。
 「豚の皮」は、東京だとなめして「皮(ピッグスキン)」として売られますが、沖縄では「食べもの」です。だから処理の工程が違います。これまた文化の違いですね。
 そうそう、「残酷」「気持ち悪い」というのは便利な言葉だなぁ〜、なんてことも思いますね。これを言えば目をそらすことが“合法化”されますから。もちろん残酷だし気持ち悪いと感じる作業ですが、目をそらしたら「その肉を食べる私」は「屠畜とは無関係です」と言えるのでしょうか? さらにその上に、屠畜をする人を差別するのはこれはもうそんなことをする人の心のありようが「残酷」で「気持ち悪い」んじゃなかろうか。それをさらりと「差別する人たちも、肉を食べてるんですよねー」と言う女性(屠場の職員)も本書に登場します。だけど屠場に「屠畜をするとは、穢らわしい」などと手紙を(それも定期的に)送りつける輩も実在するのだそうです。個人的な厄落としでもやっているつもりなのかな?
 ただ、私たちも肉を食べ過ぎているのではないか、とは思います。私の実家は貧乏だったので、私の子供時代に肉はあまり食卓に上りませんでした。米と野菜と魚が主。クリスマスには「鶏の腿(骨付き)」が一人に一本、これが年に1回の「(細切れではない)かじりつける肉」という大ご馳走でしたっけ。だけど今は、肉は大量に生産され、大量に消費されています。でも「大量」を確保するために(あるいは「大量」の結果として)私たちは「(肉に対して)無神経」になっているのかもしれません。動物の飼育環境を劣悪にしてコストダウンをし、そして大量流通のために「食べられない部分(本当は工夫したら食物になる部分)」を平気で捨て、食物となった肉でさえも食べ残して捨てる。こういった無神経な大量生産大量流通大量消費は「業」ではなくて「犯罪行為」と呼んで良いのかもしれません。


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