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2016年12月11日07:49

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大河ドラマの主人公と老い

 今年のNHK大河ドラマでは「老いた人の姿」がけっこう詳細に描かれていたように思います。特に印象的なのは秀吉の無残な姿でしたが、徳川家康や真田昌幸の老いもけっこうリアルでしたね。そもそも「人生」を悠々と描くのが「大河」ですから老いがあちこちで花開くのは当然ですよ。そういえばこれまた印象的なキャラクターであるきりも順調に老いています。
 ……となると、ちっとも老いない主人公の幸村は、ちょっと異常?

【ただいま読書中】『秀吉の経済感覚 ──経済を武器とした天下人』脇田修 著、 中公新書1015、1991年、560円(税別)
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 秀吉の城攻めの特徴は「経済感覚」だと著者は述べます。鳥取城では、あらかじめ城下の米を買い集めておいてから包囲をして「干乾し」をしましたし、備中高松城では地元の百姓を動員して短期間に水攻めの準備を完了しました。小田原城でも補給を万全のものとしてから悠々と包囲戦です。越前北の庄城では力攻めをしていますが、これは「力攻めをしなければならない理由」があったから、と著者は例外としています。
 もともと築城でも「割普請」という新しい方法を取り入れた秀吉ですから、経済感覚で戦争も見ていたのでしょう。
 中世の権力(領地支配)は「公家」「武家」「寺社」が並立していました。しかし秀吉は、「武家の統領」であると同時に「関白」という公家の最高権力者でもあります。つまり「日本全部」が秀吉に集中していた、と言うことが可能です。だからこそ「検地」を全国規模で施行することが可能だったのでしょう。
この検地によって「土地」は「交換可能なもの」になります。土地に密着して生きていた侍たちは城下町に集められ「本領」との繋がりを断たれるようになりました。それどころか大名の転封によって大名家丸ごと“不在地主”化させられる例もありました。
 豊臣家の直轄領は約200万石。意外に少ないものです。江戸に移った徳川家は240万石、加賀前田家は102万石です。まだ全土を支配する力を豊臣家は持っていなかったようです。ただ、全国に細かく直轄地を配置して各大名ににらみをきかせる狙いがあったようです。だけど関ヶ原以後秀頼は摂津・河内・和泉で60万石を領していただけでした。どさくさ紛れに直轄地の多くはどこかに消えてしまったようです。ちなみに江戸時代の徳川家は700万石の大大大名でした。
 秀吉の経済感覚が破綻したのが朝鮮出兵でした。侍だけではなくて、百姓や船頭も徴用されて動員され、疲弊する村が多くありました。賦役逃れのため「一家に男子一人の動員」との定めの裏をかいて「複数家族が一家に同居」する村も多くありましたが、秀吉はそれに対して「親子であっても世帯ごとに分居」という「核家族化」命令を出しています。しかし、国内では無敵だった秀吉の経済感覚も、異国では通用しませんでした。国内では「数量把握」と「合理的思考」ができたのになあ。
 秀吉の時代は中世の“尻尾”です。しかし秀吉は「近世」の準備をしっかりとしてから死にました。ある意味、江戸幕府の“恩人”と言えそうです。


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