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2016年12月08日07:22

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紫電改

 私がこの言葉に初めて出会ったのは、少年マガジンに連載されていた「紫電改のタカ」ででした。当時の私にとって「日本で最強の戦闘機」はゼロ戦でしたが、それ以外にもすごい戦闘機があるということをこの漫画で知ることができました。それと、どんなにすごい兵器であっても、(戦闘に勝つことはできても)それだけで戦争に勝つことは難しい、ということも。
 当時「日本はアメリカ軍の物量に負けた」と一般に言われていましたが、それが敗因のすべてなのか、ということに疑問を持つようになったのも、こういった戦記漫画を読むようになった頃からのことです。漫画の影響力は、なかなか、馬鹿にはできません。

【ただいま読書中】『最後の戦闘機 紫電改 ──起死回生に賭けた男たちの戦い』碇義朗 著、 光人社、1994年、1748円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4769825196/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4769825196&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 川西航空機は、三菱、中島のビッグツーに次ぐ中堅メーカーでした。水上戦闘機や水上偵察機での実績があります。その川西から昭和17年にデビューした水上戦闘機「強風」は改造されて陸上戦闘機「紫電」になりました。元は水上戦闘機ですから、フロートを外して脚をつける、だけではすみません。結局大工事が必要となり、初飛行は17年の大晦日。ただ、当時の海軍は、同時期に開発中だった「雷電」を次期戦闘機の“本命”と見ていて、紫電は“補欠”扱いでした。
 この頃、アメリカで開発中のB29についての情報は日本でも知られていました。そのため高高度迎撃戦闘機の開発が始まります。ところが日本のやり方は、陸海軍がそれぞれのメーカーに独自に発注。そのためなんと7種類の戦闘機が同時並行で開発されました。陸海軍としてはお互いに協力したくないし、メーカーを競争させたらその中から一機でも優れたのが出てくるだろう、という思惑だったのでしょう。だけど、資源も人も時間も足りない状況で、無駄な競争は戦争の足を引っ張るだけです。メーカーは、制式機の量産と同時に新型の開発を、それも複数同時に行うわけで、結局そのしわ寄せは「人」に来ることになりました。開発現場でも過労や病気で人がバタバタと倒れたのです(残業が月に200時間は当たり前だったそうです)。
 川西で採用したエンジンは、「誉」という小型だが2000馬力のものでした(ゼロ戦の「栄」は1000馬力)。ところが無理に高機能を絞り出すため、気難しいエンジンで、部品には高品質の耐熱材料、ハイオクタンガソリンと良質なオイルを要求します。ところが昭和18年頃にはそんな“贅沢”は望めなくなっていました。そういったエンジンを搭載した試作機の試験飛行は、当然エンジンの機嫌を取りながらのものになります。しかし軍は新型機の投入を焦り、とにかく制式採用をしようとしました。そのため、「新鋭機」は、実戦に投入されてからエンジンにも機体にもトラブルが頻発することになります。
 軍が焦るのには理由がありました。アメリカ軍は続々新鋭機を投入します。対して日本軍は、ベテランパイロットが次々戦死し、新鋭機の投入が遅れていたのです(パイロットは戦死せず、ゼロ戦の優秀性は不滅、と思っていたフシがあります)。
 とりあえず「強風」を「紫電」に改造してそれなりに優秀な成績は出せましたが、あまりの不具合の続出ぶりに川西の技術陣は根本的な設計のやり直しを決断します。「紫電改」プロジェクトの開始です。「雷電」も不具合が続出して実戦配備が遅れていたため、海軍もこのプロジェクトを公認しました。
 やっと雷電や紫電の局地戦闘機によって編成された部隊が登場します。ただし、それまでの「一対一の格闘戦」に慣れたゼロ戦パイロットに「高速を活かして急上昇や急降下での一撃離脱で爆撃機を落とす」局地戦闘機は不評でした。操縦の“思想”が全然違いますから。
 ともかく紫電改の量産が始まります。ところがその足を引っ張ったのが、部品不足と熟練工不足でした。特にエンジンが足らず、工場では困ったそうです。
 やっと編成された紫電隊ですが、米軍のフィリピン攻略が始まり、重武装(主翼に20ミリ機銃4丁。ちなみに20ミリを機関砲と呼ぶのは陸軍で、海軍は機銃と呼んでいた、と本書にあります)を活かすために、本来の制空ではなくて魚雷艇攻撃に使われていました。また、高速を活かして偵察機にも活用、最後は特攻に使われて、紫電隊は消滅します。
 資材不足は深刻でジュラルミンが不足したため、紫電改を鋼板で製作しようと検討がされます。重量があるから軽量化のために板を薄くする必要がありますが、すると剛性が不足します。そのため内部構造を変更する必要があります。すると重量が増えます。そこで翼面積を増やしてつじつまを合わせる……なんだかキリがありません。
 昭和20年1月に第三四三航空隊(紫電改の部隊)が編成されます。各部隊のエース級を集め、資材も(残された中で)最高のものを投入した精鋭部隊でした。部隊は、米軍の呉空襲を迎撃して戦果を上げますが、アメリカ軍はお返しのように川西航空機の工場を繰り返し爆撃します。そのため部隊の作戦可能機数は減少の一途に。結局製作されたのは400機程度でした。
 敗戦後、紫電改にアメリカの燃料やオイルを入れると本来の性能を発揮して、随伴するグラマンが追いつけなかった,というエピソードを聞くと、なんだかがっかりすると同時に「秘密兵器の○○さえあれば戦争には勝てる」というのは怪しい、とも思います。戦争をする気なら、世界全部を敵に回してもいいくらいの「総合力」を身につけておかないと無理なんじゃないかしら。


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