mixiユーザー(id:235184)

2016年12月02日07:17

238 view

恩讐の彼方

 日本では「恩」は一度受けたら、下手したら一生ものです。借方勘定や貸方勘定で“精算”することはほぼ不可能(たとえば「恩師」は一生「恩師」です)。
 それと同様に、「復讐」に関しても「殺しても飽き足らない」という感情が働くことが多いように私には感じられます。
 法治主義の世界ではどちらも“精算”可能なものとして扱われますが、日本社会はまだそこまで進歩していないのかもしれません。

【ただいま読書中】『世界の辺境とハードボイルド室町時代』高野秀行・清水克行 著、 集英社インターナショナル、2015年、1600円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4797673036/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4797673036&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 「現代のソマリランド」と「室町時代の日本社会」に、意外にも共通点がやたらと多いことに気づいた二人の対談です。まず二人が気づいた共通点は「部族の掟」「宗教の定め」「法律の縛り」の三重構造で社会が支配されていること。
 ソマリアでは「氏族の掟」は(田舎では)非常に厳しく、無茶苦茶はできません。日本の田舎でも「人の目」が厳しいからあまり無茶ができないのと似ています。ではソマリアの内乱で無茶苦茶が起きたのはなぜか、といえば、それは舞台が「都市」だったからではないか、という仮説が本書で述べられます。そしてそれは「応仁の乱」で足軽たちが都で無茶苦茶をやったのと、似ているのではないか、と。戦争で「敵の首都を落とせば勝ち」だったら戦争のやめ時がわかりやすいのですが、首都で内乱(しかも勢力が拮抗)だと「やめ時」がわからなくなってしまうのです。
 もちろん「日本」と「ソマリア」は違います。日本は「中華」と出会うことで中央集権国家への道を歩みましたが、遣唐使をやめた頃から独特の文化を育てるようになり、「欧米」と出会うことでまた中央集権国家への道を歩むことになりました。対してソマリアは、欧米との出会いが植民地主義だったため、きちんとした中央集権国家が作れませんでした。それでも室町時代と現代ソマリアが似てくるのだから、面白いものです。
 日本で被差別民は、皮革職人など「血と死」の穢れに関係する人たちでした。遊牧社会で家畜や皮革が身近なソマリアでも被差別民がいるのですが、意外なことに「刃物を扱う人(鍛冶屋)」がそこに含まれていました。また、芸能も定住しない被差別民が担当します。そう言えば日本でも、定住しない芸人は差別の対象でしたっけ。
 「日本の生きた歴史」を知るためのヒントが、世界の辺境に現在はまだ残っている(学者が辺境に出かけることでヒントを掴んで帰ってくる実例がある)というのは、私にとっては刺激的な指摘でした。中国の歴史を眺めていても「中央集権の歴史は辺境から変革される」例は、周、秦、隋、唐、金、元、清などいくらでもあります。「正統派の学者」も、もうちょっと「辺境」に注目した方が良いのかもしれません。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年12月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031