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2016年11月16日07:00

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白に紅

 「色が白いは七難隠す」と俗に言いますが、色白の人が、あるいは色白ではない人が白粉をはたいたあと、頬紅をさすのは、一体いくつ目の「難」を隠しているのでしょう?

【ただいま読書中】『化粧の日本史 ──美意識の移りかわり』山村博美 著、 吉川弘文館、2016年、1700円(税別)
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 日本の伝統的な化粧の「基本色」は「白(白粉)」「赤(口紅、頬紅)」「黒(お歯黒、眉化粧)」でした。『古事記』には「顔面の入れ墨」が登場してこれはおそらく色は黒ですが、本書では「顔のメイク」に入れ墨は入れてもらえないようです。『魏志倭人伝』には、「倭人が(中国の白粉のような感じで)身体に朱丹(しゆ)を塗る」とあります。5〜6世紀の埴輪には、顔面に赤い彩色が施されたものがあります。つまり「赤」が最初。次に登場するのが「黒」です。平安時代には婦人用のお歯黒のための道具がありました。ただし普及度はわかりません。眉化粧(眉を黒く描く)は奈良時代には行われていたようです。「白」は持統天皇の時代。持統天皇に「鉛粉(鉛白粉)」を元興寺の僧が献上して褒められています。鉛白粉は後漢(紀元後25〜220)ですでに使われていて、その製造技術がもたらされたのでしょう。
 『源氏物語』では、紫の上が10歳の頃に、眉化粧(毛を抜き黒く描く)とお歯黒をするシーンがありますが、当時の貴族ではこのくらいの年から女性は化粧を始めるのが“常識”だったのでしょう(『堤中納言物語』の「虫愛ずる姫」は「自然の眉」と「白い歯」を周囲から非難されています)。
 平安末期には、男の公家も女を真似て、眉を抜く・お歯黒・白粉・頬紅などの化粧をするようになり、それを政権についた平家も真似するようになりました。室町幕府では将軍家がお歯黒をつけ、それを豊臣秀吉も真似しています(小田原攻めの時にお歯黒をつけました)。ここで化粧は「権威の象徴」になっています。薩摩島津氏や小田原北条氏では「忠誠の証し(色は変わらない)」としてのお歯黒が広く行われました。江戸時代には「男の化粧」は公家にだけ保存され、化粧は「女性のもの」とされました。日本特有なのが「黒の化粧」です。江戸時代の庶民の女性は、「歯が白く眉がある」は未婚、「お歯黒をしている」は既婚、「眉を剃っている」は「子持ち」でした(ただし婚期に遅れた女性は未婚でもお歯黒をしました)。男も丁髷の形で社会的身分を明示していましたが、女は化粧で示していたわけです。厚化粧は下品とされましたが、薄化粧をするのは「女の義務」でした。これは、中世〜17世紀のヨーロッパで化粧が「虚栄の罪」としてキリスト教会に否定されていたのと対照的な文化的態度です。
 白粉の原料は、はじめは水銀でした。塩化第一水銀は白色の粉末です。「伊勢白粉」が知られていましたが、17世紀に丹生の鉱脈は掘り尽くされ、中国からの高価な輸入水銀か、安い鉛白粉が用いられるようになりました(もちろん安い方が普及します)。「美白」のためのスキンケアも様々行われました。しかし、当時は疱瘡(天然痘)のあばた、梅毒の瘡(かさ)、様々な皮膚病、鉛の毒性、などが肌を荒らしていました。
 紅花の花粉は、3世紀の遺跡からも出土していて、日本では昔から栽培されていたようです。万葉集では「末摘花」「呉礼奈為(くれない)」と呼ばれました。江戸時代には山形の最上川流域が最大産地で、そこから京に運ばれて紅に加工されました。唇だけではなくて、頬や爪にも塗られていたそうです。文化文政の頃には笹色紅が江戸と上方で流行しました。紅を厚く塗ると緑色の玉虫色になるのですが、下唇だけ緑色にする、という化粧です。金と同じ価値と言われる紅を贅沢に使用する、という心意気もあったのかもしれませんが、庶民は「薄く墨を塗ってから薄く紅を重ねると玉虫色に」という節約術を発見していました。なお、天保の改革の奢侈禁止令でみんな薄化粧に戻っています。
 お歯黒については地域差がありますが、子供ができたら眉を剃る、は日本共通でした。ただ、上流階級の女性はそのあとに「置き眉」をそれぞれの家の決まりで描きますが、庶民は剃りっぱなし。ただし浮世絵では「眉を描かないと老けて見えるので、30歳未満は絵に眉を描く」というルールがあったそうです。「美人画」ですからねえ。
 明治になり、「江戸時代の化粧」は全否定されます。近代的な化粧品が「工業製品」として製造されるようになり、「美しい目」は「伏し目がちで切れ長の目」から「ぱっちりした目」に変わりました。しかしお歯黒の習慣は明治半ばまでずっと廃れなかったようです。白粉では無鉛白粉が開発されました。開発者の茂木兄弟は白粉だけでは販売量が少ないため、塗料も開発して販売する光明社を作りました。これがのちの業界大手の日本ペイントだそうです。また「肉色(肌色)の白粉」というものも販売されました。大正時代には資生堂が「七色白粉」を発売しています。
 明治末期には「美顔術」が流行します。洗顔・マッサージ・化粧のコースで大人気だったそうです。女性雑誌も続々出版され、化粧法などの情報を全国の読者に届けました。大正には女性の社会進出が進み、「働く女性の化粧」が登場します。さらに「モダンガール」が登場。大正末期に銀座で行われた調査では、洋装率が男性は67%・女性は1%! そんな時代に断髪・洋装の「モダンガール」をするのは、相当勇気が必要だったことでしょう。
 戦争で衰えた「お化粧」は、戦後に「アメリカンスタイル」で復活します。昭和30年代は「カラー時代」でした。映画・テレビがカラー化し、雑誌のカラーグラビアが増え、お化粧も当然のように「カラー化」していったのです。そこで注目されたのはアイメイクでした。先鋭的な女性は派手なアイメイクに挑戦します。それが大衆化したのが昭和40年代。ツイッギーはミニスカートで有名ですが、彼女の派手なアイメイクにも日本の女性は注目し、真似をしました。いかにも「作りました」と言った感じのメイクに反発も大きかったようです。ところが昭和の末頃には「ナチュラルメイク」が流行、さらには「ナチュラルな太眉」まで登場します。「小麦色の肌」は昭和40年代に人気となりましたが、昭和末期には「UVカット」が流行となります。また「美白の時代」になったのです。
 化粧の流行って、実は似たような所をぐるぐる回っているものなのかもしれません。ただ、化粧が「個人のもの」だけではなくて「社会のもの」だったと証拠付きで示されたのは、新鮮でした。


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