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2016年11月10日07:15

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トランプ革命

 今回のトランプさんの当選は、大げさになるかもしれませんが、「革命」の一種ではないか、と私は感じています。格差社会の「下の人びと」が「現在の政治システム」に「ノー」を突きつけた、と。少し前のイギリスのEU離脱も同じジャンルの出来ごとに分類可能でしょう。
 となると、日本でも近いうちに同じようなことが発生する可能性が大です。格差拡大は日本でも着々と進行中ですから。その時「革命の主導者」がまともな人だったら良いんですけどね。

【ただいま読書中】『明と暗のノモンハン戦史』泰郁彦 著、 PHP研究所、2014年、2800円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4569816789/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4569816789&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 日本側の史料だけではなくて、最近公開された旧ソ連の一次史料やモンゴルの史料を突きあわせることで「ノモンハン」について新しい光を当てようとする本です。
 満州国とモンゴルの「国境」は、実は不明確でした。著者は18種類もの地図を探し出していますが、そこでの国境線は大体「ハルハ河」と「ハルハ河の東側」の2種類に大別できます。で、日本側は「ハルハ河」、ソ連は「ハルハ河の東側」と思っていたので、お互いに「相手が国境侵犯をした」と認識してしまいました。
 「国境線の論争では、自分に有利な地図だけを提出する」「国境紛争では、相手が先に仕掛けたと主張するのが常則」……ですから、双方の主張だけを見ていては大したことはわかりません。それでも資料を精細に読み込むことで、「謎」の奥に迫ることができます。
 1939年「国境地帯」では小規模な紛争が頻発していました。ただし警察レベルです。そこに、「ちょっと懲らしめてやれ」とばかりの軽い気持ちで日本の関東軍がちょっかいを出します。それにソ連軍が反応。第一次ノモンハン事件の勃発です。戦車・装甲車を含むソ連軍・モンゴル軍2300人に対して、ほぼ同数の日本軍の主力は騎兵隊でした。日露戦争の気分ですか? 戦闘を総括した辻参謀は「一勝一敗」と評しましたが、著者によると「一勝が何を指すのかは不明」だそうです。戦闘終了後に敵軍の妨害を受けずに遺体の回収には成功したことが「勝ち」だったのかもしれません。
 ソ連軍のジューコフ司令官は、スターリンににらまれて粛清の危機にありましたが、危地から脱するために「勝利」が必要でした。そのために現場に対して非常に辛口の評価を行い、さらなる準備を整えます。
 「一勝」したと考えて油断している日本軍と、厳しい態度で準備を重ねるソ連軍。第二次ノモンハン事件の“準備”は整いました。
 関東軍は強気でした。大本営は硬軟の間を揺れ動きます。その“すれ違い”を上手くいかし、関東軍は着々と、タムスク爆撃やハルハ渡河を実行しました。タムスク爆撃は日本側の大勝利、と発表されましたが、最近判明したソ連側の記録では、そこまでの“ワンサイドゲーム”ではなかったようです(日本側の発表では敵機撃墜は98機だが、ソ連側の記録では17機。搭乗員の犠牲は日本が7人、ソ連が9人)。
 関東軍の読みは、ソ連軍は脆弱で装備は貧弱、戦えば「牛刀で鶏を裂く」ように大勝利、のはずでした。しかし、ハルハ河の西岸では戦車と装甲車がどっさり待ちかまえ(日本軍は戦車の渡河ができませんでした)、日本の戦車軍団が使えた東岸では、鉄条網のピアノ線にキャタピラが絡め取られて立ち往生、十数両が狙い撃ちで炎上してしまいます(「ピアノ線の悪夢」と伝えられているそうです)。装甲の厚みも違い、日本軍は火炎瓶で戦車に対抗しました(当時のソ連製の戦車はガソリンエンジンで、火炎瓶の炎を吸い込むと破壊することができたのです)。これはノモンハンでの貴重な「戦勝シーン」でした。実際には37ミリ速射砲の方が対戦車の破壊力は強く命中率が高かったのですが、弾が足りなくて、2分間速射したら弾切れになっていました(大本営との不和が原因となって、補給はほとんどありませんでした)。
 その後、日本軍得意の夜襲を繰り返しますが、犠牲が増えるだけ。陣地にこもっての砲撃戦に移行しますが、弾着観測も無しに「予定数」を撃ったらそこで終了。何をやってるんだろう?と軍事の素人は訝しく思います。砲撃戦は「自分が何発撃つか」ではなくて「敵にどのくらいの損害を与えるか」でしょ? ジューコフは「日本軍は空き地ばかり撃っていた」と笑っています。そして8月20日、ジューコフの大攻勢が始まり日本軍は壊滅的な損害を受けてしまいます。しかしソ連軍は自らの「国境線」で停止。おかげで日本軍の生還者の数は増えました(もっとも「無断撤退」としてその後処罰されるのですが)。
 関東軍は「負けてはいない。次に戦えば勝つ」と言い続けました。そのため「攻勢」の姿勢をノモンハン“以後”も取り続けます。しかしソ連は「防御」の姿勢で、強固な陣地を構築していました。ポーランド進駐やフィンランド侵攻のために、あまり東で長期戦をしたくはなかったようです。それぞれ腹に一物ある外交交渉で、とうとう現状維持での「国境線」が確定します。
 日本国内では「地上戦では相当の犠牲が出たらしいが、航空戦では圧倒的な勝利だった」というのが共通認識でした。率直な感想が表に出るようになったのは、なんと1980年代以降。たとえば全期間を戦った滝山中尉は「初期は楽勝、中期は五分五分、後期は苦戦」「やっと生き残ったなという実感、後期は負けであったと思った」と1999年に語っています。まず戦闘思想が違います。日本軍は航空戦(航空機同士の空中格闘戦)を重視していましたが、ソ連軍は地上直協作戦(空軍が地上部隊を支援)を重視していました。だからでしょう、初期は日本軍の圧勝です。しかしそれは地上戦にはなんの影響もありませんでした(航空機と地上を無線で結ぶ発想さえなかったのです)。ソ連は、偵察機や対地攻撃を巧みに応用し、それを見て不平を漏らす日本軍将兵もいました。さらに、火炎瓶攻撃を見て戦車をすぐに改良した柔軟な姿勢を、ソ連は「空」でも見せます。初期の航空戦から教訓を得て、パイロットの再訓練と九七戦への対抗戦術の研究と新機種の投入を始めたのです。対して日本の第二飛行集団(後半は航空兵団)は、最初から最後まで、同じ機種・同じ装備・同じ戦術で戦い続けました。そして、常に数的優位を持つソ連軍を相手に、消耗戦へと引き込まれてしまったのです。ノモンハン航空戦の日ソ比較表がありますが、私に非常に印象的なのは、損失機数は1:2で日本が“優勢”なのに、(自国が認めた)戦死者数はほぼ同数であることです。撃墜されたパイロットの“再利用”をソ連はしていた、ということでしょう。
 「ソ連」の時代、ノモンハンの戦死者数は日本の半数以下とされていました。ところが共産党政権が崩壊して情報が公開されるようになると、公式戦史の戦死者数はどんどん増えて、日本軍の死者とそれほど変わらなくなりました。つまり日ソは空と地上のどちらでも大損害を受けたわけです。ただ、係争地の争奪戦としてみたら、ノモンハンはソ連の“勝利”ということにはなりそうです。
 敗戦責任は、関東軍の上層部ではなくて、現場の指揮官たちに負わされました。自決の強要が何人にも行われ、男爵が華族の礼遇を停止されて予備役に編入された例もあります。捕虜交換で帰還した人たちは「犯罪者」として扱われ、自殺勧告をされて自殺をした人も(はっきりわかっているだけで)最低二人はいます。そういえばスターリンも捕虜になった兵士はその家族もろとも反逆者扱いをしていましたが、日本軍も似た発想を持っていたようです。本当の責任は、無謀な作戦を立てた参謀たちやその作戦を採用して大本営や天皇の意向を無視して暴走した人たちにあると私には思えるのですが。


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