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2016年10月09日06:32

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ノーベル賞

 ノーベル賞って、理系の学問だけではなくて、文学や平和という不思議なものも対象にしています。平和賞や経済学賞はよく“外して”いますが、文学賞についてはけっこう目利きが揃っているのか、私がこれまでに読んだノーベル文学賞受賞作家の作品は、大体“当たり”でした。今回読んだのも、「ノーベル賞」で思い出した作品です。

【ただいま読書中】『大地(1)』パール・バック 著、 新居格 訳、 中野好夫 補訳、 新潮社(新潮文庫)、1953年(2013年95刷)、670円(税別)
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 本書を私が初めて読んだのは、中学校の終わり頃か高校のはじめ頃。衝撃でしたね。ただ、本書が持つ“価値”をきちんと捉えることができていたかどうか、は疑問です。だから初読から半世紀くらい経っていますがまた再読することにしました。
 貧しい小作人王龍(ワンロン)は地主の黄家から奴隷の阿蘭を嫁としてもらいます。不美人ですが働き者の阿蘭と王龍は無駄遣いをせずに懸命に働き、銀貨が少し貯まると、贅沢をし過ぎて傾いた黄家から土地を買い取っていきます。子供も次々産まれます。あまりに幸運がつきすぎている、と不安に感じていた王龍ですが、そこに干ばつが襲いかかります。トウモロコシの穂軸、木の皮、食べられるものは何でも、ついには畑の土まで食べます。
 『怒りの葡萄』でアメリカ人はカリフォルニアを目指しましたが、本書で中国人は「南」を目指します。王龍も一家を引き連れてその流れに乗ります。たどり着いた「南の都会」では、人びとは太っていました。そこで一家は乞食をやります。王龍は人力車を引きます。皆が懸命に小銭を稼ぎますが、彼らがその日暮らしを脱出できる見込みはありません。「希望の地」に貧乏人から収奪するシステムが完備していて、貧乏人同士が争う社会であることは、『怒りの葡萄』とほぼ同様です。
 外国人が我が物顔で闊歩し、弁髪を切り落とすファッションが少しずつ流行し始めているところを見ると、清国の権勢にも陰りが見え始めた時代のようです。
 阿蘭は徹底した現実主義者です。彼女にとって最も大切なことは「サバイバル」。そのためには、息子たちが盗みを働くことも、さらには自分の娘を売ることも厭いません。そして王龍もついに娘を売る気になったとき、暴動が起き、そのどさくさで王龍一家は大金を手にし、帰郷します。故郷も匪賊によって荒れ果てていました。そこで完全の没落した黄家の所有地をごっそり王龍は買い受けます。彼にとって信頼できるのは「土地」だけだったのです。
 ひとりでは耕しきれないので作男を雇います。周期的に襲ってくる天災に備えるため勤勉に働き蓄えを貯めに貯めます。王龍はいつしか大地主になっていました。しかし、豊かになることによって、王龍は新しい世界と出会うことになります。子供たちには教育を与え、自分は女遊びを覚えてしまいます。さらに息子たちがぐうたらな“若様”に育ってしまったのが悩みの種です。そしてそこにイナゴの大群が襲ってきます。次は河の氾濫。
 それでも学者になった長男が無事結婚し、王龍は孫を得ます。商人になった次男の結婚も決まり、これで三男に農業を継がせたら自分の人生は大団円、と思っていた王龍は、大ドンデンを味わうことになってしまいます。中国には戦乱と革命の嵐が吹き荒れ、王龍の一族の間にも人間関係の嵐が吹き荒れます。しかし王龍の「土への愛着」は変わりませんでした。臨終が近づいたとき、王龍は息子たちに命じます。「土地を売ってはならない」と。息子たちは従順に「土地は売りません」と答えますが、王龍の頭越しに息子たちはニヤリと笑いあうのでした。
 周期的に襲来する飢饉といかに戦うか(生き残るか)、が王龍の人生の“テーマ”でした。しかしその息子たちは飢饉をほとんど知りません。彼らの人生の“テーマ”はまた別のものであるようです。しかし王龍はそれに気づいていません。王龍は気づいていませんが,読者は気づきます。そして、王龍の「気づいていないこと」にため息をつくのです。しかし、読者もまた、そういった「気づいていないこと」が自分の人生に存在することに、気づいているのでしょうか?


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