mixiユーザー(id:235184)

2016年07月27日07:05

234 view

「ない」は「無い」とは限りません

 もしも「ない」の反対語が「ある」だけだったら、「いらない」「もったいない」「幼い」の反対語は「いらある」「もったいある」「おさある」に?

【ただいま読書中】『昭和天皇とスポーツ ──〈玉体〉の近代史』坂上康博 著、 吉川弘文館、2016年、1800円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4642058257/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4642058257&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 大正天皇が病弱だったためか、1901年(明治34年)に誕生した長男裕仁は生後70日で枢密顧問官川村純義伯爵の家に預けられ、「健康第一」の養育方針で育てられました。4年後に皇居に戻った裕仁は、皇居内に設けられた幼稚園で同世代の子供たちと過ごすことになります。面白いのは、「御学友」は裕仁を「殿下」と呼ぶが、その中の4人は「御相手」で裕仁を「迪宮(みちのみや)」と呼び喧嘩をしたり泣かせることも許されていたことです。人気の遊びは鬼ごっこ。
 小学校入学にあたっては、乃木希典が学習院院長に就任、雨天運動場と第二運動場を増設します。体操の授業も、国語と算術に次いで多くなりました。ただし乃木が奨励したのは、剣道・馬術・遊泳など、軍人として役に立つもので、学生に人気のテニスや野球は正面切って排除しようとしています。
 放課後の遊びとしては、相撲や鬼ごっこが人気でしたが、時代を反映して、学習院の校庭や赤坂離宮の庭では戦争ごっこもよく行われていました。「陛下」はもちろん「大将」役でした。
 1914年学習院初等科を卒業した裕仁は中等科には進まず、東宮御所内に作られた「御学問所」に通います。初等科のクラスメイト11名から5名が選ばれて「東宮出仕」として学友というか側近として東宮御所に泊まり込み御学問所に通いました。帝王学のカリキュラムではやはり体育が重視されていました。2年の二学期の時間割では、週27コマのうち「武課及体操」が5コマ・馬術が2コマもあります。
 「昭和天皇とスポーツ」といえば私はまず「ゴルフ」を思うのですが、これは西園寺ら側近が「ゴルフは紳士のスポーツであるし、欧米に行ったときに王族たちとの交際で困らないように」と1917年に勧めたようです。側近は「玉体の安全」も重視していました。だから側近が勧めるスポーツからは「サッカー」「ラグビー」「柔道」「スケート」などは慎重に排除されていました。
 15才で裕仁は立太子礼を迎えますが、その3箇月前から練習を始めたのが「正座」だったというのが意外です。幼少時期から椅子の生活だった裕仁は、立太子礼での長時間の正座に耐えるために練習をする必要があったのです。さらに18才の成年式を迎えるために始まったのが「姿勢」の訓練でした。儀式で正しい姿勢を保つために、授業を減らして姿勢の訓練の時間が増やされます。
 1920年大正天皇は公務から退き、裕仁が天皇の名代を務めることになります。21年にはヨーロッパ外遊。半年の日程の中、ゴルフを楽しんだりボート競技やフェンシングの観戦をし、「外交や文化におけるスポーツの価値」を再認識したようです。
 「ロシア革命の衝撃」は宮内庁にはけっこう大きかったようで、「国民に親しまれる皇室」を彼らは目指します。だから「姿勢」「健康状態」が重視されたのでしょう。さらにメディアにもこれまでにない接近を許し、そのために裕仁のスポーツ好きが全国に知られることとなります。これは、病弱の大正天皇と次代の天皇の違いを国民に強調する狙いがありました。一種の売り込み戦略ですね(実際には裕仁もけっこう病弱だったのですが)。
 22年に英国皇太子エドワードが来日。両皇太子の日英対決が駒沢ゴルフクラブで行われました。スポーツ大会に優勝カップを下賜するようになったのも、この年からです。エドワード皇太子が東京ゴルフクラブに銀製カップを寄贈したのを真似たのがその始まりかもしれません。
 摂政時代、裕仁のスポーツの三本柱は、乗馬・テニス・ゴルフでした。乗馬は軍務の延長ですが(障害飛越はオリンピック選手に指導を受けてけっこうな腕前だったそうです)、ゴルフは家族との楽しみだったようです。22年からの5年間で92回のプレイですから、相当お好きだったのではないでしょうか。結婚した良子(ながこ)も結婚後1箇月で一緒にコースに出ています。結婚4箇月後には赤坂離宮に新設されたテニスコートで裕仁夫妻はミックスダブルスの試合に出ました。
 ところがこういった報道が気に入らなくて宮内庁を攻撃する人びとがいました。国粋主義者です。皇太子が西洋の「すぽーつとやら」を愛好するとは何ごとか、「武道」に専念するべきだ、と。それに対して宮内庁が取ったのは、メディアの発信制限でした。皇太子がゴルフをしている、という報道がなければ良いのだろう、ということです。そもそも側近が裕仁を半ば無理矢理引っ張り出してスポーツをさせたのは、もともと虚弱だった体質を改善して「玉体」の健康維持をするためです。ですから実際のスポーツの回数は減りませんでした。侍従たちにとって大切なのは、国粋主義者の体面よりも、裕仁の体調なのです。大正天皇崩御の翌年、1927年に昭和天皇は乗馬を84回、ゴルフなどを178回行っています。侍従の決意は本物です。それにしても、皇太子に武道を、と要求する人って、竹刀で皇太子の頭を思いっきりはたいたり柔道で押さえ込んだり皇太子の関節を決めてしまいたい、という欲求でもあったのでしょうか? というか、皇太子のスポーツについて頭ごなしに言える人って,自分は皇太子より偉い、と思っていた?
 即位の大礼に合わせて、住まいも赤坂離宮から明治宮殿の御常御殿(おつねごてん)に移転。赤坂離宮には6ホールのゴルフコースがありましたが、引っ越しに合わせて吹上御苑に新しいゴルフ場が建設されました。葉山の御用邸のゴルフ場も全9ホールに拡張されます。吹上ゴルフ場は冬にはスキー場になりました。70〜90mのスロープですが、都内でスキーができたんですねえ。
 結局「こんなご時世」によって、天皇はゴルフをやめます。問題になるのは、ストレス対策と体調管理。そこで始められたのがデッキゴルフです。船の甲板で行われるゲームですが、外から見えないように宮内庁侍医寮の屋上に設備が作られました。「天皇のスポーツ」は、個人の嗜好ではなくて「国家プロジェクト」だったのです。
 スポーツ一点だけ見ても、天皇とはなんとも不自由な生活だと思います。ただ、「他人のスポーツに偉そうに口を挟む人間」が目立つか目立たないか、が「社会の健康度」のバロメーターとして使えることもわかりました。天皇はその「シンボル」です。なんともお気の毒な立場ですが。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年07月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31