「二言はない」武士
「契約は守る」商人
「約束を守る」庶民
「……………………」政治家
【ただいま読書中】『盛り場はヤミ市から生まれた』橋本健二・初田香成 編著、 青弓社、2016年、3000円(税別)
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物資不足と価格差の“圧力”は物資をヤミに流します。1943年はじめの調査では日本国民は2〜5割の物資をヤミで購入していました。ただし戦中はそれはそれこそ闇でこっそりと行われる取り引きでした。ところが戦後は、公然とヤミ市が立つようになります。空襲の焼け跡、建物疎開跡地、鉄道のガード下……場所はあります。同時にそれまで「闇」と否定的に表現されていたのが肯定的に「ヤミ」と書かれるようになりました。新聞の論調もこれまでの否定一方から生活のためには必要なものという認識を示すようになります。実際にヤミを使わず配給物資だけでは生きていけなかったのです。
面白いのは、同じ「ヤミ市」でも「テキ屋を中心とした“プロ”集団(同業組合)」と「素人露天商」があったことです。「素人」には様々な人が混じっています。店を焼かれた商売人・失業者・復員軍人・傷痍軍人・遺族・海外からの引き揚げ者……人種も様々です。
あまりにヤミ市が繁盛したため、政府は物資統制や区画整理でヤミ市を“整理”しようとします。整理される側は当然抵抗します。しかし東京オリンピックを契機に都市整備が進められ、たとえば新宿駅西口のマーケットは1960年に整理されて西口広場になりました(一部は「思い出横丁」として残りました)。有楽町駅では62年に「すし屋横丁」が消滅。新橋駅では61年に都市計画が決定され東口は66年西口は71年に新しいビルが完成しています。池袋や渋谷もどんどん整理されていきました。
私が育った地方都市でも、戦後の焼け跡に作られた“市場”の一部は昭和の遅くまで残っていました。子供時代には木造バラックを見た覚えがありますが、いつの間にか雑居ビルになっていました。中身はほとんど「ヤミ市」由来のまま保存されていたようですが。
ここまで書いて何ですが、「ヤミ市」というものは存在しません。「各地域のヤミ市」なら存在します。
たとえば新橋。ヤミ市はニュー新橋ビルにほぼそのまま引っ越してサラリーマンの飲み屋街になってしまいました。
新宿では、テキ屋の力が非常に強く、新宿駅はぐるりとヤミ市に取り囲まれてしまいました。尾津組は1945年8月20日に早くも「光は新宿より」と「新宿マーケット」(12軒の仮設店舗)をオープンさせています。警察もテキ屋の力を借りるために黙認・協力・利用・奨励をしていました。ただし世情が落ちつくにつれて公権力はヤミ市に冷たくなり、47年からは街の顔役が次々逮捕される事態になります。しかし当時の新宿駅の写真を見ると、今の西口駅前広場にずらりとバラックが並んでいるのです。迫力があります。
渋谷は台湾マーケットが一つの特徴でした。農業・水産業と直接つなぐ鉄道路線がなかったため、品揃えは“それ以外”に特化することになります。
吉祥寺(ハモニカ横丁)は中華マーケットです。PXからの横流し品も潤沢だったのが特徴です。
本書に登場するのは、東京だけではありません。神戸や盛岡が扱われますし、巻末には全国各地の一覧表があります。“日本人の迫力”を感じます。こういったものがあったから「戦後の復興」があったのでしょう。そのおかげで私の親は生き抜くことができ、私が生まれることができたのだろう、と思うと、感慨深いものを感じます。
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