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2016年07月20日07:17

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息が合う

 二人の息を合わせる続けるためには、両者が妥協するか、片方は意識では妥協したつもりだけど実はマイペースを保っていてもう片方が自分を完全に犠牲にしているか、の二つのやり方がありそうです。

【ただいま読書中】『ホンダオートバイレース史 ──浅間レースからマン島TTまで』中沖満 著、 三樹書房、2016年、2000円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4895226514/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4895226514&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 本田宗一郎さんを「オヤジさん」と著者は呼んでいます(実際にそう呼ぶ人が多かったそうです)。
 戦後の日本で、町工場から「オヤジさん」は再出発をしました。材料とコストと手間をできる限り削って生み出したのが原付バイクの「ドリーム号」。昭和28年「オヤジさん」はドリームE号で「全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞大パレード」(名古屋TT)に参加します。これは市販車に最小限の改造をするだけで未舗装の公道145.5マイルを走破する“レース”でした。目的は、外国製オートバイに対して著しく性能が劣る国産オートバイの耐久テスト。お手本は「マン島TTレース」ですが、公道を使用する「レース」は許可が下りず「パレード」になったのでした。参加57台中42台が完走、ホンダは参加した3台とも完走してチーム賞を獲得します(個人賞は18秒差で惜しくも2位)。
 ホンダの目標は「安物作り」ではなくて「安く良いものを製造して輸出する」でした。「良品に国境なし」です。そのために、資本金の数十倍の設備投資をしたため、「技術以外のすべてを担当」していた藤沢専務はとんでもない苦労をすることになります。満を持して売り出したスクーターのジュノオにクレームが続出して会社が苦境に立たされたとき、「オヤジさん」は有名な「マン島TTレースへの挑戦宣言」をします。これは会社の基本ポリシーの宣言でもありました。戦う相手は「世界」だ、と。
 富士山登山レース(静岡の浅間神社から2合目まで登る市販車レース)でライバルのヤマハが登場、舞台は昭和30年の浅間高原レースに移ります。1周19.2kmのコースで、一部だけ使う2級国道でさえ未舗装、大部分の町村道は“酷道”のレースでした。ここで「ホンダ対ヤマハ」の構図が完成。レースは専用コース(ただし未舗装)が作られ昭和32年から「浅間火山レース」が始まります。これは二輪メーカーの淘汰であり、「4ストロークエンジン(ホンダ)対2ストロークエンジン(ホンダ以外)」の「対決」でもありました。ファンは熱狂し、アマチュアのレースも浅間で開催されるようになります。
 そして昭和34年にホンダチームはマン島に到着します。彼らは自分たちが「海外のレース」「海外のファクトリーマシン」に丸っきり無知な井の中の蛙であることを痛烈に思い知らされます。何も知らずに「勝つぞ」と言っていたチームは、データをとにかくたくさん日本に持ち帰るために「完走」に目標を切り替えます。10周173kmをとにかく走りきろう、と。そして……
 著者が「一番好きなエピソード」と紹介している「タキシードに風船」は、私も好きな話です。「オヤジさん」が勲一等の勲章を受けたとき、謝恩パーティー(立食形式)には数千人が集まりました。そこで「オヤジさん」はタキシードに長い糸で風船を結びつけたのです。風船には自分の似顔絵が描いてあります。それで広い会場を隅から隅までゆらゆらと挨拶をして回ったのですが、会場中のどの人にも「主催者がどこにいるか」がすぐにわかるための工夫でした。周囲への気遣いとユーモアと形式張らない人格とがいっぺんにわかる話です。こんな人がもっとたくさんいたら、日本の社会はもう少し“豊か”になっていたかもしれません。ただ、本書に描かれた人物像を見る限り、近ければ近いほど自分のペースを保って親しく付き合うのはけっこう大変だったかもしれませんが。


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