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2016年07月12日06:48

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庶民の願い

 昔の庶民の願いは、生命の安全と安い税金でした。今の庶民の願いは、生活の安全と安い税金でしょう。生命が簡単に失われることがなくなっただけ社会は進歩しているとは言えますが、庶民が安全に快適に暮らせているとはまだ言えないようです。税金が嫌われているのも、同じ。

【ただいま読書中】『阿弖流為 ──夷俘と号すること莫かるべし』樋口知志 著、 ミネルヴァ書房、2013年、3000円(税別)
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 「阿弖流為」は「あてるい」と読みます。人名です。
 大化の改新の頃、朝廷の東北経営も進行していました。大化年間に越後や仙台に次々城柵が設けられます。ただこの頃にはまだ「蝦夷の反乱」はありませんでした。稲作文化が先に浸透し、それから政治がやってくる、といった感じだったのでしょうか。しかし大宝律令制定後の和銅二年(709)、庄内地方で「蝦夷の反乱」が発生します。当時はまだ出羽国は未成立で「日本最北の国」は越後でした。この反乱はすぐに鎮圧されたようですが、養老四年(720)陸奥国(現在の宮城県大崎市あたり)で大規模な反乱が起きます。さらに神亀元年(724)にも反乱が再発。ところがそれから50年間史料には蝦夷の反乱が登場しなくなります。「平和」だったわけではなくて、わざわざ記録しなければならないほどの大事件はなかった、ということだと著者は理解しています。ちなみに神亀元年は多賀城が創建された年でもあります。この「平和の時代」には、宮城県大崎〜山形・秋田の県境あたりに「国境」とでも呼べるものが設定され、お互いにその「境」を尊重する態度だったようです。しかし天平宝字ころ(750年代後半)から陸奥や出羽に「日本」が城を次々造営するようになります。
 著者は阿弖流為を「戦争を知らない世代」と想定します。大きな反乱がなかった半世紀の間に生まれ育った、と。さらに、従来は「若きリーダー」とする説が多いのに対して、著者は「中年以降の族長」と推定しています(その根拠は、反乱以後の行動に求めています)。
 「蝦夷の反乱」は、単に「国家vs蝦夷」の構図だけではなくて、「蝦夷内部の勢力争いと対立」も複雑に絡んでいたはずです。さらに、交易または農林水産業のための移民も続々と押しかけていました。「日本」から見たら「フロンティア」ですが、地域の緊張はどんどん高まっていたはずです。神護景雲三年(769)陸奥国の「住人」64人に一括賜姓が行われます。丈部・春日部・宗何部など部姓の人がほとんどですが、これはつまり、蝦夷の豪族を一括で国家の権力下部構造に組み込んだことを意味します。著者は阿弖流為の一族もそんな権力構造に組み込まれて、国家に協力していたと考えています。しかし宝亀七年(776)に反乱鎮圧のために7000もの大軍が阿弖流為の本拠地に侵入し、これまでの“協力者”にも反逆者に同調するかそれとも同族を討つかの二者択一を迫りました。
 平将門の乱は、もともとは一族内の争いだったのに国が乱暴に介入することで話がどんどん大きくなった、と私は感じていますが、それと似たようなことが「蝦夷」にもあったのかもしれません。ついでですが、朝廷側の史料は、「取捨選択と脚色が施された現地からの報告」の中からさらに「朝廷にとって都合の良いもの」を取捨選択した上で“編集”が行われているわけですから、丸ごと信じるわけにはいきません。「書いてあるものはすべて信じる」態度だと、個人のポエム日記も新聞記事もすべて“真実”ということになってしまいますが、そんなことはありませんよね? そこから“編集”を無効化して少しでも真実に迫るのが学者のリテラシーでしょう。これは現代の私たちも,マスコミや政治家の言動に対して使わなければならないテクニックですが。
 「蝦夷の反乱」が大ごとになってしまった背景に、著者は「桓武天皇のコンプレックス」を見ています。出自の低さを業績でカバーしようとして,無理をしたのではないか、と。かくして、それなりに安定して平和な交易が行われていた「賊地」に向かって、律令国家の総力を挙げての大軍が進発します。迎え撃つ蝦夷軍の総帥が阿弖流為でした。延暦八年、6000の征討軍はなぜか闇雲に突進をし、山と川に挟まれた地で少数の蝦夷軍による挟み撃ちとなって、戦死25、溺死者1036の大敗北を喫します。しかし官軍が本腰を入れてさらに大軍を投入した第二次会戦では蝦夷も大損害を受けたようです(せっかくの勝利だったのに、最初の敗北で桓武天皇はご機嫌が斜めのままだったようですが)。そして延暦十三年に、官軍は前回と同規模の約10万人の軍を送り込みます。史料では官軍の圧倒的勝利のようですが、“占領地処理”はなぜか生ぬるいものです。帰順した蝦夷たちを厳罰に処するのではなくて、けっこう自由に振る舞わせています。著者はそこから「蝦夷に対する恐怖」や「中央と現地のギャップ」を読み解きます。中央が望む“北風”ではなくて“太陽”でなければ、蝦夷に対する支配(というか共存)はできなかったのではないか、と。
 延暦十三年の征討で副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は二十年には征夷大将軍(正使)となってまたやって来ました。目的は阿弖流為の完全な降伏。ただし降伏は“手段”であって、目的は陸奥国の平和です。平和な時代を知っている阿弖流為もまた田村麻呂と目的を共有していました。そのためでしょう、阿弖流為は500人の一党とともに降伏、都に送られます。田村麻呂は阿弖流為たちの助命嘆願をします。彼らを活かして使えば、陸奥国はもっと安定する、と。しかしその嘆願は無視され、阿弖流為は斬刑に処せられました。その死を聞いた蝦夷たちは、反乱を起こしませんでした。それは阿弖流為が「平和を維持するために、反乱を起こさないように」と人びとに説いていたからではないか、と著者は考えています。
 「蝦夷」とはつまり「お前は野蛮人だ」と漢字でも言っているわけですが、はたしてどちらの方が本当に野蛮だったのか、なんてことも私は思っています。


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