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2016年07月02日09:02

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ほどほどの幸福は、なし?

 「最大多数の最大幸福は、道徳と立法の基盤である」はジェレミ・ベンサムの有名な言葉です。
 「少数の最大幸福が、資本主義の目的である」は、「少数“以外”の人びと」の日々の実感です。

【ただいま読書中】『少女民俗学 ──世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」』大塚英志 著、 光文社(カッパサイエンス)、1989年、748円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334060420/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4334060420&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 「私たちの内側に〈少女〉がいる」という宣言から本書は始まります。ユングのアニマを私は想起しますが、著者はもうちょっと民俗学的な視点から見ています。
 著者によると、「少女」とは「生産から外された者」です。女性が思春期を迎えて性的に成熟したら、昔の社会ではすぐに結婚や労働が可能でした。つまり「幼女」と「成熟した女性」の二種類だけが存在していました。ところが明治になって女性の結婚の縛りがきつくなると、つまりは「結婚までの間、社会の生産ラインから外された層」が登場しました。それが「少女」だ、というのです。
 さらに、日本は「生産者の国」ではなくなっています。農業従事者はどんどん減少、第二次産業もどんどん海外に任せるようになり、日本人のほとんどは「生産ラインから外された人間」になりました。「近代化」とは「生産者」から「消費者」に人びとが移行する過程と言えます。すると「生産ラインから外された人間(性別を問わず)」の心の中に「少女」があってもよかろう、というのが著者の発想です。
 そこでまず「日本社会での〈少女〉」が実際にどのような「記号」として表記されているか、から話が始まります。
 まずは「制服」。大人から見たらこれは「管理」の象徴です。ところが「かわいい制服」に憧れて入学する中学校を決める、なんて動きが出てくると、これは「管理」が無力化されてしまいます。「制服」が〈少女〉を誇示する記号となってしまいます。だからおニャン子クラブが「セーラー服を脱がさないで」と歌ったわけです。セーラー服を脱いだら〈少女〉ではなくなってしまいますから。
 「変体少女文字」「部屋に集積された“かわいいモノ”」「(学校ではない)学園」「リカちゃん人形」「おまじない」「朝シャン」「怪談」「男ことば」……〈少女〉たちは、軽々と「日常」から浮上していきます。ところが面白いことに「日常」の方が〈少女〉を追いかけているのです。もちろん「消費者」としての〈少女〉は「市場」からは見逃せない層でしょうが、単にモノを売りつけておしまい、ではなくて、売る側の方が(その心性のあたりまで)〈少女〉に影響を受けている様子なのです。
 本書はちょっと不気味な予言で閉められます。日本人は〈少女〉から〈成人〉になれるのか? なれなければ、滅びるだけ、と。
 もっとも「ピーター・パン」になる、という手もありますけどね。


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