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2016年06月29日06:53

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江戸前

 現在の東京で「江戸前」を売り物にしている店があったと記憶していますが、「江戸前の魚介類」を売り物にしている店があるかどうかは存じません。かつては豊かだった江戸前の海がその豊かさを取り戻す日はあるのかな?

【ただいま読書中】『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ ──江戸四大名物食の誕生』飯野亮一 著、 ちくま学芸文庫、2016年、1300円(税別)
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 「そば切り」がはじめて歴史に登場したのは、織田信長が足利義昭を追放した頃のことです。「そば切り」とは、それまで蕎麦掻きやそば餅で食べていた「蕎麦」を麺としたものでした。江戸初期には茹でて食していましたが、やがて軽く茹でたあと蒸す(あるいは蒸らす)ようになります(その時使った笊や蒸籠が、現在の「ざる」や「もり」の容器に痕跡として残っています)。つなぎに小麦粉を使って茹でても切れにくくなると茹でたものをぬるま湯または冷水で洗ってから食べるようになります。一杯盛り切りの安い蕎麦を「けんどん」と称しましたが(その名残が出前で使う「けんどん箱」にあります)、つっけんどんと言った悪い言葉が流行るにつれて「けんどん」という呼称は消滅します。
 享保年間には江戸では煮売り茶屋や辻商人も麺類を扱うようになっていましたが、蕎麦よりは饂飩の方が多く商われていました。麺を食べさせる店も、うどん屋の方がそば屋より圧倒的に多く、初期の江戸では「うどん>そば」だったようです。そういった中で「そば切りの名店」が登場。その頃「二八そば」が登場しますが、当時の絵図などには「二六そば」「一八うどん」もあることから著者は「二八」は(つなぎの小麦が二割、の意味ではなくて)値段のこととしています。ちなみに寛政の改革で松平定信はそばの値下げをさせ、その結果看板は「二七そば」に書き換えられました(ただし盛りもその分減量されていたのですが)。天保の改革でもそばは値下げを強制され「三五そば」が登場しています。
 この「二八」に限っても、著者は実に多くの文献に当たっています。よくこれだけ様々な本や絵図を探し当てることができたものだ、と感心します。しかし、「夜そば売り」がいつ登場したか、は町奉行の「夜そば売り取り締まり」(火災防止のために、火を使う商売の制限令を町奉行は何度も出していました)から推定するとは、著者は“名探偵”です。この取り締まりで“そばの地位”は時代を下るにつれて重要性を増しています。つまりそば(の屋台)が大繁盛になっていたわけです。かくして天明の頃には、そば屋がうどん屋を圧倒することになりました。「江戸はうどんではなくてそば」というのは、意外に新しいものでした。
 そば屋に次いで登場したのが、蒲焼き屋です。はじめは鰻を丸ごと串に刺してそのまま焼いていましたが、元禄時代には鰻を裂いて焼くようになります(本書では鰻を裂いて焼くことの発祥地は京都だとされています)。「江戸前」という言葉がありますが「江戸前鰻」という“ブランド”も登場しました。「丑鰻」も登場し、文化の時代には丑の日だけ鰻の串焼きはふだん八文が四十八文で売られたそうです。現在の蒲焼きでは蒸したり焼いたりしますが、この「蒸す」料理法が登場するのは明治になってからです。白焼きにした後蒸してタレをつけて焼く料理法が確立したのは大正年間、ということは、私たちは江戸の人とはまったく「違う蒲焼き」を食べている可能性があります。
 蒲焼きと飯は最初は別々に供されていましたが、やがてそれを合体させた「鰻飯」が登場。鰻重や鰻丼となります。「美味いものを食べたい」という人間の欲望と工夫は、いろいろ嬉しいものを生んでくれます。
 天麩羅は最初は屋台です。最初は「胡麻揚」という名前でした。天明年間に「天麩羅」という看板が上がります。「天麩羅は山東京伝が名付け親」という説がありますが、実際には京伝より前に京都の奥医師奥村久正の『料理食道記』に「てんふら」が記載されています。初期は、魚はから揚げ、野菜はコロモ揚げだったようです。江戸では屋台の天麩羅は一串四文。ずいぶんお手軽なファーストフードだったようです。屋台には天つゆと大根おろしも常備されていました。脂っこい味に慣れていない江戸の人間は、それでさっぱりとさせて食していたわけです。「天麩羅そば」は、天麩羅とそばの屋台が隣り合って商売をしていたとき、客がそれを合体させて食べたのがはじまりのようです。天麩羅を店で出すようになったのは、茶漬け店でした。天麩羅と茶漬けでさっぱりした口当たりで安く腹一杯になる、という仕掛けです。これが当たり、やがて天麩羅専門店が登場します。
 江戸四大名物食の最後に登場するのが握りずしです。ただし「すし」そのものの歴史は四者の中ではもっとも古いのですが。少なくとも奈良時代には「なれずし」は税(調の一部)として扱われていました。平安時代の「延喜式」には、なれずしとして、フナ・アワビ・イガイ・ホヤ・アメノウオ・サケといった魚介類だけではなくて、イノシシずしやシカずしなんてものまであります。1〜2年漬け込んで米飯は捨て魚だけを食べていましたが、やがてつけ込み時間を短くした「生なれ(生なり)」が登場し、飯も食べるようになります。さらに乳酸発酵を待たずに酢を加えることで酸味をつける「早ずし(一夜ずし)」が登場。十八世紀中ごろには江戸で早ずしが店や屋台で売られるようになりました(ちなみに江戸の屋台で「飯」を扱っていたのは、このすしの屋台だけです)。取り扱いが楽なように、一口大の笹巻きずしも登場。ただこれも出来上がるのに一晩かかります。江戸の人はさらなるスピードアップを求めました。一口大の押しずしの屋台も登場。さあ、握りずしの誕生まで、あと一歩です。文政10年(1827)の史料に握りずしが登場しますが、誰が発明したものかは不明です。はじめは屋台で売られていましたがやがて店も登場。最終的に江戸ではそば屋よりすし屋の方が数が多くなるくらい、握りずしはヒットしました。手軽に食べることができる食品ですが、その歴史はお手軽とは言えなかったようです。


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