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2016年06月05日07:24

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レースは危険

 1977年F1日本グランプリは富士スピードウェイで開催されました。当時の日本では「暴走族」が社会問題になっていて、自動車レースと暴走族の区別がつかない人が日本には多数いました(それどころか、普通にオートバイに乗っている人と暴走族の区別がつかない人もいました。当時私も原付で単独長距離ツーリングをしていたら後ろから幅寄せをしてきた自動車に乗った人から「この暴走族野郎!」と罵られたことがあります。自動車でバイクに幅寄せする行為の方がよほど「暴走」より危険なんですけどね。ついでに言うと、その時私は「暴走」どころか、のんびりちんたら流していた状態だったんですが)。
 そしてF1の決勝当日。接触事故が起き、ジル・ビルヌーブのフェラーリがコースアウト。そういったときのために設定された待避ゾーンに突っ込みました。ところが(危険なゾーンだから)観客は立ち入り禁止となっていたのに、なぜかそこに観客の集団が。多くの人が負傷し、二人が死亡しました。マスコミは大喜びで「レースは危険だ」「暴走族だ」と大騒ぎをしました。私から見たら「立ち入り禁止を守らなかった人間が悪い」んですけど。それと「競技場の管理」の問題点も指摘するべきでしょう。レースには危険があります。だからこそ「フォーミュラ(規格)」や「規則」や「規則」が必要になるのです。それを最初から守らない態度は、危険を甘く見ている態度です。(プロレスのリングに客が乱入して誰かにぶつかって怪我をしたら「プロレスは危険だ」と騒ぎます?)
 だけど当時のマスコミは「この暴走族野郎!」で満足していたんですよね。

【ただいま読書中】『ニキ・ラウダ ──不屈のチャンピオン』アラン・ヘンリー 著、 森岡成憲 訳、 ソニー・マガジンズ、1991年、1700円
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4789706532/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4789706532&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 著者はニキ・ラウダとほぼ同世代で、ニキ・ラウダがF1にデビューした1年後にモーター・ジャーナリストとしてF1を取材するようになった、つまり自分のF1キャリアのはじまりがほとんどニキ・ラウダの「活躍」と重なっている、という一種特別な経歴を持っているのだそうです。つまり生身のニキ・ラウダを知っているわけです。
 「ウィーンからやって来た、出っ歯のおぼっちゃま」とニキ・ラウダは自分自身のことを評しています。著者は「厚顔なやり口」なんて辛口の評価をしていますが、ただその語り口は好意的です。さらに、若い頃から「強い意志」「冷静な判断や計算」「独特のユーモア感覚」が目立つドライバーでした。欠けているのは、周囲との協調性。「非常にフェアだけど、情け容赦ない」走りをするのだそうです。ただ、回りに合わせることが得意なドライバーがレースで世界チャンピオンになれるか、と言われたら私は否定的な見解を示したくなりますが。
 強力なバックを持たないが才能が豊かな若手ドライバーが通常通る道(なんとかスポンサーを見つけ、それを“武器”に弱小コンストラクターのナンバーツーのシートを確保、そこで実力を示して有力なチームと契約)をニキ・ラウダも通過します。その途中に“奇策”も用いているようですが、ともかく74年にフェラーリから声がかかったのです。ニキ・ラウダは新しいステージに上昇します。最初の1年で、数多くの失敗をし、そこからニキ・ラウダは多くのことを学びます。さらに徹底したテストドライブの重要性も。そしてニキ・ラウダは戦い始めます。敵は多くいます。すべてのライバルチームとドライバー、特に親友のジェームズ・ハント(マクラーレン)。さらに「フェラーリは無敵だ」という思い込みに囚われて、テストや改良の重要性を軽視するチーム内の人間も“敵”に相当します。
 そして76年ニュルブルクリンクでの事故。この事故に関連して「ニキ・ラウダがニュルブルクリンクをグランプリレースから除外しようと策謀した」という伝説が生まれました。しかしそれはただの噂で真実は全然違うことを著者は本書で冷静に述べています。そもそもレース前のドライバーズミーティングとニキ・ラウダの事故は別の問題なのですから。
 濡れた路面の高速コーナー、リア・サスペンションの故障で突然コントロールを失ったフェラーリは、キャッチフェンスを突き破って岩壁に衝突、はね返ってコース中央まで戻ったところで後続車に衝突されました。フェラーリは燃え上がり、ニキ・ラウダは生きながら焼かれることになります。あまりの重傷で、病院でローマン・カトリックの臨終の儀式が行われましたが、そこからニキ・ラウダは生還しました。2箇月後にはもうレースに復帰して4位入賞をしています。しかしその時の最終戦、日本グランプリでは、大雨の中さっさと棄権、ジェームズ・ハントが歓喜の世界チャンピオンを獲得することになりました。
 フェラーリとの関係がぎくしゃくするようになり、翌年チャンピオンシップを獲得したのにもかかわらず、ニキ・ラウダはブラバムに移籍。そこで航空産業に強い興味を持ち、引退をすることにします。
 本書のカラー写真を見ていると、ニキ・ラウダは「赤いマシン」に乗っていることに気づきました。マーチは全体が赤、次のBRMは上半分が赤(下半分は白)、フェラーリはもちろん真っ赤。そして次のブラバムもほぼ赤(一部が白)です。ちなみに、引退した後の復帰で乗ったマクラーレンは白が基調ですがやはり赤が印象的に使われています。ヘルメットやつなぎも「赤」だし、ニキ・ラウダは「赤が好みのドライバー」だったのでしょうか。色で車を選んだわけではないでしょうが。
 金融不況のあおりを受け、ラウダ航空は苦戦をしていました。それの影響もあったのか、2年半の“休養”後、ニキ・ラウダはF1に復帰します。乗るのはマクラーレン。復帰して3年目のシーズン、チームメイトのアラン・プロストとタイトル争いをしながら、ついに3度目の世界チャンピオンを獲得。そして、ニキ・ラウダはまた「空」に戻ります。なんと機長資格も取ってしまったのです。「もしかしたらニキ・ラウダが機長かもしれない」と飛行機に乗るのは、それは楽しいフライトでしょうね。


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