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2016年05月31日06:52

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野蛮人の火刑

 魔女裁判や異端審問での火刑、日本での火あぶりの刑など、生きたまま人間を焼く行為に、人はどんな「価値」を見いだしていたのでしょう? 私には野蛮な行為に思えるのですが。おっと、「野蛮人」でさえ、そういった行為をして大喜びをするとは思えません。「生きたまま人間を焼き殺す」ことの正当性を確立するためには、ある程度の知性と教養と文化が必要でしょ?

【ただいま読書中】『ナパーム空爆史 ──日本人をもっとも多く殺した兵器』ロバート・M・ニーア 著、 田口俊樹 訳、 太田出版、2016年、2700円(税別)
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 焼夷兵器は「ギリシア火」の昔まで遡れ、中世にもその威力を誇っていましたが、火砲の進歩で実戦の場からはいつの間にか消えてしまいました。携行型火炎放射器をドイツが第一次世界大戦で開発しますが、これも実用的な兵器とは見なされていませんでした。しかし、ゲルニカ爆撃で使用されたテルミット焼夷弾によって、焼夷兵器は注目されるようになります(日本は上海爆撃でその戦術を応用しました)。アメリカも焼夷弾に注目しますが、マグネシウム不足を考え、別のタイプの焼夷弾を開発しようとします。ガソリンとゴムの混合物が良さそうでしたが、日本が南洋を押さえたためゴムの供給がストップ。別のものが必要になります。はじめは「ナフテン酸塩」と「パルミチン酸塩」から製造されましたが(だから両者の頭文字から「ナパーム」と名付けられました)、大量生産はラウリン酸とパルミチン酸をガソリンに混ぜて行われました。だから本当は「ナパーム」は“間違った名前”なのです。
 1942年7月4日、ハーバード・ビジネススクールのサッカー場で、20キロのナパーム(工業用せっけんでゲル状にしたガソリン)に白リンで着火する実験が行われました。実験は成功。「ナパーム」の誕生です。これは同時に、アメリカが試みた「軍」「大学」「産業」の結合が成功した証しでもありました。発明者はハーバードの化学教授ルイス・フィーザーだったのです。
 ナパーム開発のきっかけは、41年にデュポンの塗料工場で起きた謎の爆発事故でした。この原因を探る過程で、ゲル化したジビニルアセチレンが燃焼中もゲル状態を保つことから、燃焼する粘性物質をまき散らす爆弾、というアイデアが誕生します。完成したナパームは、テルミットとの比較試験を受け(ドイツと日本の家並みをリアルに再現して、そこを実際にそれぞれの爆弾で繰り返し爆撃しました)、テルミットより優位である(とくに日本家屋に対しては壊滅的な効果を持つ)ことが証明されます。
 MITはナパームを高圧にすると液化することを発見します。これはそれまでのガソリンを発射するだけの火炎放射器に革新をもたらしました。放射距離が伸び、途中で燃えずに目標に到達できる燃料の量が飛躍的に増加したのです。
 ナパームは43年8月のシチリア島侵攻作戦で初めて実戦投入されました。太平洋でもすぐに使用が開始されます。火炎放射器と爆弾の威力は絶大で、現場からは補給要請、というか、要求が相次ぎます。アメリカ軍がヨーロッパで投下した爆弾の40%がナパームで、ドイツには20万トンのナパームが投下されたそうです。日本に対してもナパームは容赦なく使用されました。ヨーロッパではあまり使用されなかった火炎放射器もフルに活用されます。のちに「サタン」と呼ばれる、戦車に搭載された火炎放射器も投入されました。しかしこれは「序章」でした。ナパームの真の物語が始まるのは、45年3月9日、東京からです。最初の1時間で313トンのナパームが投下されたのです。日本では京都以外の66の大都市が焼かれます。都市工業地帯の42%が破壊され33万人の民間人が殺されました。あまりに投下しすぎて焼夷弾の在庫が切れ、本国から輸送されるまで3週間空襲が中断された期間があったくらいです。戦略爆撃調査団や科学研究開発局(OSRP)は「原爆やソ連の参戦がなくても、焼夷弾が不足していなければ、それだけで日本は降伏しただろう」と報告をしています。近衛文麿や鈴木貫太郎も同じようなことを述べています。“不足気味”だったにもかかわらず、ナパームは日本に重大なダメージを与えていたのです。
 その威力を学んだ軍の一つが、イスラエルでした。67年の六日間戦争でナパームが大きな役割を果たしています。ただしその中には、近くにいたアメリカの調査船「リバティ」をイスラエル軍がナパーム弾で誤爆した、というのも含まれています(アメリカ兵34名が戦死しましたが、アメリカ軍が他国からナパームで攻撃を受けたのはこれが初めてです)。
 朝鮮戦争でも、対戦車兵器としてナパームは威力を発揮しました。直撃をしなくてもその周囲を炎の海にしたら吸気口から炎を吸い込んだり燃料タンクに火がついて戦車は破壊されてしまうのです。もちろん密集している北朝鮮や中国軍兵士の集団も標的とされました。太平洋戦争の時に連合軍が太平洋戦域に落とした爆弾は50万トン、朝鮮戦争の時にはなんと63.5万トンでしたが、焼夷弾は朝鮮戦争では3万2357トンで、45年に日本に落とされた量の2倍だそうです。
 世界各地でもナパームは、その効果の大きさとコストの低さからでしょう、頻用されました。内戦や植民地戦争など、“その場”はいくらでもあったのです。そして、ヴェトナム。63〜73年の10年間でなんと38.8万トン!
 朝鮮戦争でもヴェトナム戦争でも、アメリカ国内ではナパーム使用の是非が問題になることはありませんでした。ナパーム使用は「正義」で、たまに“民間人に対する事故”はあるがそれは許容範囲内、なのです。しかしやがて、ナパームの残虐性についての知識が広がり、「共産主義者の陰謀だ」「愛国者ではない」といった非難を突破して反戦運動が少しずつ高まっていきます。そして、67年に「ナパームの被害者の姿」を知らせる3本の記事がナパーム反対運動(と反戦運動)を加速します。そして72年南ヴェトナムのチャンバン村。ナパームを浴びて服は焼け落ち、裸で重い火傷を負い泣き叫びながら走って逃げている9歳の少女の写真が全世界に配信されます(「戦争の恐怖」http://irorio.jp/daikohkai/20150624/239680/)。
 しかし、ナパーム投下直後の村に入った兵士の体験談を聞いた聴衆が静まりかえり涙ぐんだ、というエピソードを知って、私はアメリカ人の“ナイーブさ”に逆に驚きます。そして、アメリカ人が原爆資料館に拒絶反応を示すわけも、少しわかったような気もしました。
 9・11以後、ナパームは“復権”します。しかしそれまでの悪評はついて回り、さらに国際的に「民間人への残酷な兵器使用の制限」運動が起きていたため(これによってクラスター爆弾は素早く禁止されてしまいました)、アメリカ軍は「ナパーム」という「言葉」の使用をやめることにします。その代わりにイラク戦争で使われたのは「ナパームとは少し成分が違う焼夷弾」でした。この“言葉遊び”によって、「ナパーム」にはむしろ注目が集まってしまいます。「アメリカ政府はなにをか隠蔽しているんだ?」と。そういった疑問符を、政府はナパームや火炎放射器で焼き払ってしまいたかったかもしれませんが。


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