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2016年05月20日07:04

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行動のコスパ

 「大きなお願いだからお賽銭をはずもう」という人は、「たくさん払うのだからその見返りは当然期待できる」と期待しています。
 「こんなに謝っているのに許してくれないのか」と文句を言う人は「これだけ謝ったのだから、当然それに見合った見返りがあるべきだ」と考えています。
 「こんなに愛しているのに……」という人は「愛」によって何か“対価”が得られると考えています。
 「祈り」「謝罪」「愛する」は、コスパを考えてする行動でしたっけ? 「賽銭」「謝罪」「愛情」は“投資”に用いる“通貨”でしたっけ?

【ただいま読書中】『分身』(ドストエフスキー全集1収載)ドストエフスキー 著、 江川卓 訳、 新潮社、1978年(80年2刷)、1500円
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J8LGF6/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000J8LGF6&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 冴えない九等文官のヤコフ・ペトローヴィチ・ゴリャートキン氏がごそごそと目ざめるところから本作は始まります。なぜか正装をして身分違いの馬車に乗ってお出かけです。行き先は、かつてゴリャートキン氏の後ろ盾だった国政参事官(五等官)ベレンジェーエフ氏の屋敷。氏の一粒種のクララ孃の誕生パーティーが開催されるのです。ゴリャートキンは自分こそクララにふさわしいという自負を持っています(そう思っているのはゴリャートキンだけなのですが)。だから出かける途中で店に寄って新居にふさわしい家具などを物色し予約してしまいます。プロポーズは受け入れられると信じ込んでいます。しかしゴリャートキンは招待されていませんでした。入邸を拒絶され、強引に侵入し、丁重にしかし断固とした手つきでたたき出され、雪降る夜のペテルブルグを絶望を道連れにゴリャートキンは駆け抜けます。まるで惨めな自分自身から逃げるように。だけどゴリャートキン氏自身が、人の悪口が大好きで他人に無礼で自分には甘いという、見事な嫌われ役だったのですが。
 夜のペテルブルグは異世界でした。そこでゴリャートキンは不思議な人物とすれ違います。よく知っているのに知らない人です。その人は堂々とゴリャートキンの住居に入っていきます。同じ外套、同じ顔、同じ仕草……彼はゴリャートキンの「分身」だったのです。
 分身は、ゴリャートキンの職場にも「新参者」として登場しました。職場の誰もその存在を怪しみません。「見た目も名前も同じ人物」が二人職場にいるという「不思議さ」を誰も怪しまないという「不思議さ」が物語を支配します。
 さらに新ゴリャートキン氏は有能で人当たりが良く(つまり大して有能でもなく当てこすりばかり言って人に敬遠をされている本来のゴリャートキン氏の裏返しのような存在で)、あっという間に人気者になってしまいます。ただしどちらも自意識が肥大しているところは共通しています。ともあれ、(本来の)ゴリャートキン氏はどんどん“居場所”を失っていくのです。
 ここでかっとなったゴリャートキン氏が新しい分身を殺したら自分も死んでしまった、とかのパラドックスになるのかな、なんてことを一瞬私は想像しますが、ゴリャートキン氏はそこまでの“勇気”はありません。相変わらず当てこすりの連呼で現実を変えようと努力をするだけで、結局“現実”はどんどん(ゴリャートキン氏にとっては)悪化する一方です。その分他の人の環境は改善されていくのが皮肉ですが。かくして馬車に乗せられたゴリャートキン氏の行き先は……
 タイムマシンで過去や未来に行ってそこの自分自身にであるのはタイムパラドックスの原因とアイデンティティの危機になってしまいますが、本作ではタイムマシン抜きで「パラドックス」とアイデンティティの危機を招いてくれました。どうしてこんな発想ができたのかなあ、と私はひたすら感心するばかりです。ドストエフスキーと言ったら「長い!」が定番ですが、本作は非常に短いので、ドストエフスキー入門としても使えるかもしれません。


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