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2016年05月14日06:52

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四大B?

 「ドイツ三大B」は、バッハ・ベートーベン・ブラームス、はクラシック音楽ファンにとっては基礎の基礎でしょうが(ちなみに私が好きな順は、ブラームス>バッハ>ベートーベンです)、日本人にもっともっと知られている(手に馴染んでいる)「ドイツのB」があることに気づきました。「Beyer(バイエル)」です。「大(偉大な作曲家)」とは言えないかもしれませんが、「基礎の基礎」でしょ?

【ただいま読書中】『バイエルの謎 ──日本文化になったピアノ教則本』安田寛 著、 新潮文庫、2016年、550円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101202869/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4101202869&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 一昨年8月26日に読書した『ブルクミュラー25の不思議』では「ブルクミュラーに関してほとんど知られていない」ことを知りましたが(というか、私が(私も?)知らなかったわけですが)、こんどは「バイエル」です。そう言えばバイエルについても私は何も知りません。というか、どの国にもきちんとした記録が残されていないのだそうです。
 フェルディナント・バイエルはドイツの作曲家で、1803年(または1805年)にクヴェアフルトに生まれマインツの音楽出版社ショット社で働き1863年にマインツで亡くなっています。知られているのはこれくらい。有名な人にしてはあまりに“無名”です。著者は「日本文化としてのバイエル」を詳しく知るために“旅”に出ます。
 1980年代末頃「バイエル批判ブーム」が起きたそうです。その主張の論拠は「バイエルは古い」「バイエルを使っているのは日本だけ」「バイエルは三流の作曲家」「鍵盤の一部分しか使っていない」「単なる指練習」……言われてみたら「そうか」と思わず頷きたくなる感じの主張の列挙ですが、それはあくまで感覚的なもので、「バイエル全否定」の論理的な根拠としてはちと弱い、というのが私の感想です。そもそもバイエルは「幼児のピアノ入門に、親が使うテキスト」として「バイエル」を出版しています。その「目的」にふさわしいかどうか、も論じて欲しいものだ、と門外漢の私は思います。
 著者が調べた限り、バイエルのは「無視」か「酷評」の対象でした。当時の権威ある音楽事典などには「生没年不詳」「独創性も価値もないピアノ曲を精力的に書いた」「便利屋」「悪趣味」「素人の腐った趣味に貢献」などとすごいことが書かれています。ところが著者が調べると、たとえば「乙女の祈り」で知られるバダジェフスカも「ワルシャワで夭逝したことで、偽詩神の低俗な作品を世に広めないことに貢献した」などと酷評されているそうで、19世紀に起きたクラシック音楽の大衆化に対する「正統派」の異常とも思える反発がそういった「酷評」をもたらしたのだろう、と私には思えます。要するに「専門家」は「大衆(と大衆に“迎合”する作曲家)」がお嫌いだったのでしょう。
 「バイエル本人」の追究に行き詰まった著者は「誰が日本に『バイエル』を持ち込んだのか」に調査の焦点を移します。定説では、明治13年にお雇い外国人のメーソンが「バイエル」を持ち込んで指導したことになっていますし、実際に音楽取調掛に提出された目録には「ハイエル・メトデ 弐拾冊」とあります。ちなみに他の楽譜はほとんどが1〜数冊の購入なので「ハイエル・メトデ(=バイエル教則本)」の冊数は突出しています。しかしメーソンは唱歌の専門家でピアノは素人。では誰がメーソンにアドバイスしたのか、と著者はボストンのニューイングランド音楽院まで出かけて、そこでメーソンの同僚だったピアノ教師エメリーが音楽院のピアノ教習の初級課程でテキストとして使っていたバイエルを勧めたことの傍証を得ます。
 そうそう、「20世紀になってからヨーロッパでは誰もバイエルなんか使っていない」という「反バイエル本」の主張を確認しようと、著者はウィーンでインタビューをして「戦後にバイエルでレッスンを受けた」という証言を引き出しています。ついでウィーンでバイエルの初版らしいものも発見。しかし確証はありません。
 いろいろ調べて、ニューオーリンズの図書館に「バイエルの初版」らしきものの登録を発見。早速照会メールを送りますが、なんとハリケーンカトリーナの襲来直後。地下にあった音楽図書館は洪水で水没してしまったというのです。打ちのめされた著者は、何の当てもなくバイエルの生誕地クヴェアフルトを訪れます。ぶらりと町を一回りしてみますが収穫はゼロ。
 かつて「ピアノ」は「新しい機械」でした。操作するためには「マニュアル」が必要ですが、それがつまりは教則本です。しかし難しい教則本は読みたくありません。特に子供に分厚いマニュアルは向きません。そこで「非常に簡単な教則本」の需要が発生しました。その需要に応えた(そして成功した)一人がバイエルだったのでしょう。クララ・シューマンは自身が受けたピアノレッスンを「静かにした手」と表現していますが、これは当時おこなわれていた「ポジション移動や指の交叉をしない運指」のことです。タイプライターで手がホームポジションから移動しないのと似た感じかな。そしてバイエルの前半部はまさに「静かにした手」のためのレッスン曲でした。
 著者は別件で入り浸っていたイェール大学図書館の電子検索システムで試しに「バイエル」を検索してみます。するとニューオーリンズで失われたのと同じと思われる「バイエルの初版」の写真が。こうしてこつこつと資料を渉猟し、数年がかりで著者はついに「1850年8月30日マインツのショット社がバイエル初版を200部発行」を確定します。そして再度のマインツ訪問。そこで著者は、正しい情報と間違った情報に導かれて、「バイエルに関する一次情報」に出会ってしまいます。この瞬間が、書き方によってはもっとドラマチックにできたでしょうに、著者はずいぶん素朴な描写にしてしまっています。ま、それも一興なんですが。


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