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2016年05月10日06:55

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金さえ払えば楽曲使用の権利が買える?

 「トランプ氏、ストーンズの楽曲使用中止要求に「倍返し」」(AFP)http://www.afpbb.com/articles/-/3086210
 トランプさんは過激な発言はするけれど、足許をすくわれるような失言は避ける慎重さも持っていますから、彼の「いいかい、私たちは実にたくさんの楽曲を使っている。使う権利も持っている。私はいつだって(楽曲使用の)権利を買っているんだ」という言葉にはアメリカの法的な裏付けがあるのでしょうね(何をするにしても、顧問弁護士団にきちんと相談をしているはずですから)。ただ、「曲を使用する権利」は「どの範囲」に契約書でなっているのか、が私は気になります。たとえば日本にいる私も「トランプ氏勝利!」のニュースでローリング・ストーンズの曲を聴かされているわけですが、契約書では「党の大会」「集会」ではなくて「全世界に配信」もカバーしているのかな? もしローリング・ストーンズが本気で法的闘争をする気だったら、トランプ氏よりも「自分の曲を勝手に全世界に流しているマスコミ」の方を相手に「楽曲の放送差し止め」訴訟を起こした方が良いかも知れません。少なくともニュースでその部分だけ無音になってくれれば、全世界的なローリング・ストーンズのイメージダウンは避けられることになりそうですから。
 「トランプ氏のイメージがへばりついて、楽曲の価値が下がった」という“名誉毀損”というか“品質毀損”に対する損害賠償訴訟、という手もありますが。

【ただいま読書中】『植民地 帝国支配の最前線(地域のなかの軍隊7)』坂本悠一 編、吉川弘文館、2015年、2800円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4642064796/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4642064796&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 本書で扱われる「植民地」は、台湾・南樺太・満州・朝鮮・南洋群島です。ただし本書では、その“前段階”として、北海道と沖縄もまた「植民地(内国植民地)」として扱われていた、という視点が提示されます。これには一瞬びっくりしますが、言われてみたらその通りですね。北海道は「屯田兵」と「旧土人保護法」によって先住民を滅亡させることで植民地から「日本」になりましたが、沖縄ではまだ「植民地扱い」は健在です。つまり、台湾併合前から日本はすでに立派な「帝国」だったわけです。
 陸軍省の統計年報では、明治30年(1897)〜大正3年(1914)に台湾で516名の日本軍将兵が「戦死」していることが記録・公開されています。つまり「植民地戦争」がおこなわれていた、というのが本書に収載された近藤正己の論文の着眼点です。「戦時」ではないのですが「戦死」と公認されているわけです。さらにこの時「軍功」も「事変に準じて」評価されています。ただ、台湾の人の犠牲はそれより二桁多い数となっており、最終的に抗日運動は、武力闘争から言論による政治的抵抗へと変わっていきます。
 サハリンは事情が複雑です。もともと人口が希薄な土地なので、日本もロシアもサハリンを「移住植民地(自国の移民を送り込むことで植民地とするところ)」とみなし、何回も国境線が変更されました。まず徳川幕府とロシアの通商条約では、千島の4島が日本領土でそれより北はロシア領、サハリンは「雑居地」とされました。明治8年の「樺太・千島交換条約」で、千島は日本領、サハリンはロシア領とされ、ロシアは流刑植民地(囚人を送り込む植民地)としてサハリンを経営します。日露戦争で、ポーツマスでの講和会議開催直前に日本軍はサハリンに上陸。正規軍が不在のロシアは、流刑囚を主体とする義勇軍で抵抗しますが、日本軍に一蹴されています(捕虜虐殺や住民の処刑もおこなわれました)。ポーツマス条約でサハリンの南半分が日本領となると、日本はロシア系住民を追放し、そこに日本からの移民を送り込みます。そこにロシア革命。日本政府はサハリンの北半分を“保護占領”し、シベリア出兵の基地として使います。しかし北サハリンの経営は難しく、1925年の日ソ基本条約によって日本は北サハリンから撤退します。25年の日ソ戦争では、北サハリンからソ連軍が侵攻、日本軍と国民義勇隊が戦闘をすることになりました(「国内での地上戦」は、沖縄だけではない、ということです)。最終的に8万人は脱出できましたが、約30万人が残され、ソ連の軍政下で暮らすことになりました。
 満州鉄道は日本には(だけではなくて、ソ連やイギリスからも)重視されていましたが、その重要性は
鉄道としての「機能」だけではなくて、「鉄道付属地(線路周囲、駅周囲)」が一種の租界として扱われていたことと、鉄道警備隊と称する軍隊を配置できることにもありました。伊藤博文は軍政ではなくて民政で鉄道経営をしようとしますが、日露戦争後にロシアから割譲された中東鉄道南部支線や日本が建設した安奉線などには独立守備隊が置かれ、そのまま「満鉄」に引き継がれました。そして独立守備隊は関東軍の基幹部隊に育っていきます。満州事変まで、外地に駐屯していた日本軍で最大だったのは2個師団の朝鮮軍でした。しかし中国の混乱が増すにつれて、関東軍はその政治性を強めていき、実力以上の影響力を国内外に与えることになります。
 日清戦争・日露戦争は朝鮮の植民地化、という“ポリシー”のための戦争だったと表現できますが、その結果置かれた韓国駐箚軍は、現地で公使館の意向を無視して(ということは、軍が政府の意向を無視して)動く傾向がありました。軍の目的として重要なものは、占領維持と治安と通信の確保、鉄道建設です(鉄道建設のための人的・物的資源のほとんどは韓国の負担とされました)。日韓併合の前から駐箚軍は占領の前衛としてしゃにむに働いていたのです(これは国際法上は、違法な軍事占領として扱われます。その根拠となる協定も条約も日韓政府の間にないのですから)。なお、朝鮮軍の実態についての研究はまだあまり進んでいないのですが、防衛省防衛研究所などの史料がネットで検索しやすくなってきているそうです。
 朝鮮でも満州でも、現地人を徴兵することに日本軍はためらっていました。信用できない、というのが一番の理由でしょう。しかし背に腹はかえられず、結局現地人の部隊を編成することになります(たとえば朝鮮では44年と45年の2年で、陸軍に9万人、海軍に2万人が徴兵されています)。
 南洋群島は「委任統治」ですから「日本ではない」わけで、その点だけでも日本軍のあり方は台湾や朝鮮とは異なります。基本は軍政で、守備隊長が軍政庁長を兼任し、民政に優越するように組織を動かしました。南洋群島は「外地」ですから、徴兵制は施行されず、一旗揚げようと渡ってきた日本人は、申請をすれば“徴兵逃れ”ができましたため、それ目的の渡航者もいたそうです。兵役法が施行されたのは43年9月のことでした。朝鮮の兵役法施行は43年8月なので、南洋群島にいた朝鮮人も徴兵の対象となりました。そして、軍も民もまとめての玉砕へ。ただ、「玉砕」という言葉は、43年5月のアッツ島で初めて用いられましたが、44年2月のクェゼリン島・ルオット島の守備隊全滅以後、大本営は「玉砕」を使うことを避けるようになります。あまりに続いて、「日本軍は弱い」という印象づけになることを避けるためだったのでしょう。言葉だけ工夫しても仕方ないとは思えますが、もう他にすることがなかったのかもしれません。


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