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2016年04月27日06:56

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フロイト派の野菜たち

 中世〜ルネサンス期のヨーロッパでは、少しでもペニスに似ている野菜はすべて精力剤扱いされていました。ただ、胡瓜は例外とされていたのですが、なぜでしょうねえ?

【ただいま読書中】『アルーア』リチャード・コールダー 著、 浅倉久志 訳、 トレヴィル、1991年、2000円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4845706652/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4845706652&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 「トクシーヌ」……歯車仕掛けの陶磁器の少女の人形「トクシーヌ」に少年時代に魅入られた男が、トクシーヌを再現しようとしますが失敗続き。ついに「人間のような機械(オートマトン)」を作るのではなくて、人間の方を機械に近づけようとします。
 「モスキート」……舞台は「トクシーヌ」のイギリスからタイに移ります。タイには著作権を無視した「女性ドール」の裏マーケットがあります。そしてその周辺には、暗い過去を持った人々が群がっていました。「モスキート」もその一人。男から「人造ドール(のフェイク)」へと“性転換”した人で、いつか自分をここから救い出してくれる“ハンサムな王子様”が現れることを信じて生きています。海面が上昇し、ヨーロッパが没落した世界で。そして、フェイクのセックスドールのさらにそのフェイクであるモスキートは、口に血の味を感じるのです。
 「リリム」……この作品で、著者の文体はシャンペンの泡のように軽やかになり、はじけ続けます。舞台はロンドン。語り手はヨーロッパ最高の量子工学技術者だったパパ(現在は破滅して、病気で寝ている)の子供の「ぼく」。そして、これまでの作品と同様、ここにも「母親」は存在しません。その代わりのように女性の自動人形が社会のあちこちに散りばめられています。そして、「ぼく」は、恋する人造少女に手を引かれ、ネバーランドへ向かうピーターパンたちのようにロンドンの夜空を飛びます。美しく、もの悲しい飛行です。
 「アルーア」……衣服SFです。衣服SFと言えば私が思い出すのは『カエアンの聖衣』(バリントン・J・ベイリー)で、あの作品は本当にぶっ飛んだ設定と展開でしたが、こちらもまたぶっ飛んだ世界でのお話です。「自我」そのものが「衣服」によって規定される(場合がある)というのですから。さらには衣服に人の大脳(の一部)を移植して衣服のみで自立した存在にすることさえ可能となっています。「私の衣服」ではなくて「私が衣服になる」のです。
 「アルーア」は本書では「蠱惑」と訳されています。しかし、蠱惑される側の人間が示すのは、執着です。目の前のセックスドールの“向こう側”に、自分にしか見えない「美のイデア」を見詰め続けているような姿勢ですが、結局執着しているのは目の前の人造美女。あるいは、最後の作品で執着の対象となるのは「衣服」。「自分」というものが存在しているような存在していないような、危うい領域でギリギリのところで物語が成立しているような感覚を味わうことができます。たぶんリチャード・コールダーの作品を私が読んだのはこれが初めてだと思いますが、こんなすごいものを知らずにいたとは、人生の何%かを損したような気分です。さて、これからその“損”を取り戻さなくては。


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