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2016年04月24日07:26

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混浴禁止

 明治政府は混浴を「野蛮な風習で、西洋に対して恥ずかしい行為である」と禁止しました。すると、温泉での混浴場面が登場する文芸作品、たとえば『伊豆の踊子』(川端康成)は、お上に公然と逆らうということで発禁処分でも食らうべきなのでしょうか。

【ただいま読書中】『混浴と日本史』下川耿史 著、 筑摩書房、2013年、1900円(税別)
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 古代日本で「湯に入る」のは、温泉しかなかったでしょう。で、野天の温泉で男風呂と女風呂に分ける……は難しいから、ほぼ自動的に混浴になっていたはずです。
 「常陸風土記」には日本最古の混浴の記録があるそうですが、これには「入浴」と「歌垣(東日本では嬥歌(かがい))(=男女が集まって歌を交わしながら気に入った相手とセックスをする集まり)」の両方の意味がかけられています。初恋の少年少女の例や、夫婦のスワッピングもあるのですから。ちなみに万葉集にも嬥歌の歌があってそこでもスワッピングが堂々と歌われています。
 お寺では「功徳湯」がおこなわれていましたが、光明皇后の「千人施浴」では皇后や女官が男性も洗っていますから、これも一種の混浴?
 平安遷都によって奈良の仏教は衰退をしました。風紀は乱れ『日本紀略』には「僧尼が淫濫をきわめ、仏教を穢し国典を乱している』とまで書かれます。延暦16年(797年)朝廷は検察使として藤原園人を奈良に送り込みますが彼が最初に出したのが「混浴禁止令」でした。風紀の乱れの諸悪の根源、というわけです。これが権力によって「混浴」が「わいせつ」視された最初の例です。
 平安時代には、貴族の館に「湯殿」が作られ始めます。さらに京都には、一般人向けの浴場も作られたようです。1191年有馬温泉に「湯女(ゆな)」が登場。それまでの遊女は、宴会に派遣されたり路上で客を引いたりしていましたが、湯女は「施設に付いている遊女」である点が新しかったのです。温泉そのものを宗教施設に擬し、宿をすべて「宿坊」と名乗らせ、その「坊」すべてに湯女がいるようになっていました。有馬温泉そのものが遊郭になったのです。「地域興し」として、天才的な発想だと思います。もっとも有馬温泉はそんなものはなくても温泉地としてしっかり繁盛していたのですが。
 1589年に京に本格的な遊郭が誕生します。その翌年大坂に湯女風呂が。このお風呂があっという間に江戸でブームとなります。最初は湯女がきちんと垢すりをやっていたようですが(だから「猿」とあだ名されました)、その内に売春が始まります。入浴を済ませた男たちは二階で順番待ち。幕府は日本橋の遊郭(元吉原)を浅草の奥に移転させ、湯女風呂を禁止。湯女たちを散茶女郎として吉原へ押し込んでしまいます。さて、「男のもの」だった銭湯がどうなったかと言えば、「女性の進出」が起きました。少数派とは言え江戸の女性人口は増えます。湯屋に女性用の施設はありませんが、彼女らは田舎で混浴に慣れていますし、遊女がいなくなった風呂屋に女性が入りに行くこと(それも混浴)に抵抗はなかったはずです。問題は男たちの意識改革が遅れていたことで、風呂屋に痴漢がやたらと出没したそうです。「湯屋にいる女は湯女」としか思えない男がいたのでしょう。
 ともあれ、江戸時代には公衆浴場は混浴、が日本の常識となりました。それに驚いたのが幕末頃から来日するようになった外国人たち。「なんと淫らで野蛮な国だ」と口を極めて罵る人が大部分でしたが、プスケ、ビゴー、シドモアのような例外もいました。明治政府は外国に気に入られようと混浴を弾圧。庶民は抵抗。板挟みになった地方自治体はうろうろします。で、混浴はしぶとく生き続けます。行政がまた躍起になったのは東京オリンピックの時。明治政府と同じく「外国に軽蔑されたくない」ということだったのでしょうか、混浴禁止令を必死に出しています。
 結局男のお役人は、女性の裸を見たら襲いかかりたくて仕方ない、と言うことを自覚していて、それを抑圧するために混浴禁止に熱心、ということなのでしょうか。すると、政府の中枢を女性中心にしたら混浴禁止令は出されなくなるのかな?


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