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2016年04月12日06:39

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自分の正しさを確認しない理由は?

 ケリー国務長官がG7外相会談で、広島の平和公園・原爆資料館・原爆ドームを訪問したことがニュースになっています。意外なのは「謝罪」の文字があちこちに散りばめられていること(「アメリカは謝罪する予定はない」とか)。岸田外相は(どこぞの国の人間たちのように)居丈高に「謝罪しろ」なんて言ってましたっけ? 私が知る限り言っていないと思うのですが。政治家が言ったことがニュースになるのは当然として、言っていないことがニュースになるのは、それはニュースにする側が抱えている問題点が明らかにされているだけ、と私には思えます。
 そういえばアメリカの世論は「原爆投下は正しかった」と主張しているそうですが、だったらなぜその「大戦果(十万以上のJAPを一瞬で焼き殺した)」を確認しに来ないんですかねえ。嬉々としてやって来て大喜びでスキップをしながら確認しても良いような気がするのですが。

【ただいま読書中】『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』嶌信彦 著、 角川書店、2015年、1600円(税別)
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 日本が無条件降伏をした地点で、ソ連国内にはすでに23ヶ国350万人の捕虜が収容され労働をしていました。ソ連から見たらそこに日本兵捕虜60万人が加わるわけで、当然その“活用”が考えられます。シベリアがその中心地となりましたが、中央アジアのウズベキスタンに3万人の日本人が連行されました。その中に、奉天に配置されていた陸軍航空廠の整備部隊(永田隊)も含まれていました。
 ソ連は、革命30周年を記念してウズベキスタンのタシケント市に一級のオペラハウス「アリシェル・ナボイ劇場」を建設しようと考えていました。そこで日本兵捕虜の中でも工兵を重点的にそこに投入したのです。457名の部隊を率いるのは、24歳の永田大尉(佐官以上は別の収容所にまとめられていたので、“現場”では大尉が最高ポストだったのです)。この人が、論理的でまじめで誠実で情に篤いという人柄で、仕事を進めるだけではなくて、捕虜全員の健康も気遣い、収容所の所長とも穏やかにやり取りをすることで捕虜の待遇を改善していきます。彼が示した目標は、捕虜全員が健康で帰国できること。そして、日本人の誇りと意地にかけて立派なオペラハウスを建設すること。
 日本人捕虜の器用で真面目な仕事ぶりに、監視のロシア兵や現地で一緒に作業するウズベク人たちの態度は少しずつ好意的なものに変わっていきます。せっかく戦争で生き残れたのに悲しい事故死をする人もいます。一日8時間労働で日曜は休みなので、「余暇」もありました。それをいかして手作りの楽器(工事現場の廃棄物やウズベク人の差し入れの材料で作ったバイオリンやマンドリン)や合唱団、素人芝居などの演芸大会はロシアやウズベク人にも大受けをします。牌を手作りして麻雀もやっています。永田隊が収容された第四ラーゲリは捕虜収容所のわりには、過ごしやすい雰囲気でした。そのせいか、共産主義の思想教育は盛り上がりません。ソ連はそれを怪しみ、永田隊長自身がスパイなのではないか、と疑います。しかし“証拠不十分”でおとがめは無しでした(そもそも和やかな雰囲気に、自己批判やつるし上げは似合いません)。
 土を掘りレンガを焼くところから始めた建築作業は、ついに締め切りに間に合います。ソ連でも一級のオペラハウスが出来上がったことをひそかな誇りに、捕虜たちは帰国していきます。その中で永田は、457名全員の名前と住所を暗記しようとしていました。「怪しい日本語の文書」を持っていたらどんな難癖をつけられて帰国が止められるかわかりません。だから暗記です。舞鶴について最初の永田の仕事は、「名簿づくり」でした。
 1966年4月26日、タシケント市を震源地とするマグニチュード5.2の直下型地震が発生しました。タシケントの街はほぼ全壊状態となってしまいました。しかし、レンガ造りの劇場はびくともせずに堂々と建ち続けていました。それを見て人びとは日本人捕虜の働きぶりについて思いを新たにします。劇場には「日本人捕虜が建設した」とウズベク語・ロシア語・英語で書かれた記念プレートが外壁に埋め込まれていました。しかし独立後、カリモフ大統領は「ウズベキスタンと日本は戦争をしたわけではない」とそのプレートを「極東から強制移送された数百名の日本国民が、建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語・日本語・英語・ロシア語の順で刻まれたものに差し替えさせたそうです。ウズベクの人びとにも「ソ連」に対して思うところがあったのでしょう。
 しかし、“たまたま”特殊技能を持った人たちが集まった集団があって、そこに“たまたま”集団の和と人の力を生かそうとするリーダーがいて、その結果すごいものが出来上がったわけです。ではそういった人たちが、「兵士」にさせられずにずっと日本で仕事をしていたら、日本はもっと良い国になっていたのではないか、なんてことも私は思います。“使える人間”の命を一発の銃弾と交換するのは、もったいないと思いません?


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