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2016年04月06日07:11

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戦国時代の陣形

 私たちが「戦国時代の戦争」で思い浮かべるイメージは、小説や映画の影響がやたらと大きくなっています。だけど、戦国大名が陣立てをするとしたら、騎馬とか鉄砲隊とかの「機能別部隊」の配置ではなくて、家臣ごとの配置をまず考えるはず。で、それぞれの家臣がそれぞれに騎馬とか槍とか鉄砲を持った家来を集団として率いて戦うわけです(でなかったら、家来たちは命令に従いません)。それに革新を持ち込んだのが織田信長だったはず。
 もっとも私のこれも半可通の意見ですから、詳しい人の話をまず聞いてみることにしましょう。

【ただいま読書中】『戦国の陣形』乃至政彦 著、 講談社(現代新書2351)、2016年、760円(税別)
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 律令制度では、仮想敵国は唐と新羅でした。しかし実際に軍事力が向けられたのは奥州の蝦夷でした。「農兵(ふだんは農作業をしていて、戦闘の時だけ戦う)」ではなくて、一種の“徴兵”によって兵農分離がすでに採用されています。また、「令義解」軍防令には「弩(クロスボウ)」を速射するために複数人で運用することが定められています。著者はこれを「信長の三段撃ちのようなもの」と解釈しています。私は「グループ運用」と思っていますが、中国の古い史料には本当に「弩の三段撃ち」もあるそうです。で、「令義解」軍防令の「陣列」は、5×5の25人の集団を二つセットにして、一つを「前列」もう一つをその後ろに「後列」として配置するようになっています。つまり50人が縦長に二つの方陣を作って並ぶわけ。これはこれで合理的ですね。斬り合いで倒れるのは最前列ですから、それで開いた穴をその後ろにいる兵士が前進して塞ぐ、そのためには横長よりは縦長の方が陣としての抵抗力が高くなりそうです。横から突撃されたり包囲されたら困りますが。ここでの「陣列」は兵種別となっています。後の時代に問題になった領主別の編成の問題はありません。なにしろ律令国家は中央集権ですから。
 ただし「実戦」でどのくらいこの軍制が用いられたかは、不明です。唯一の戦場だった奥州では、密集陣形の正面衝突、なんて戦いはなかったはずですから(蝦夷の側はゲリラ戦を展開したはずです)。
 古代の「陣形」は一時歴史から消えます。やがて武士が勃興しますが、「保元物語」に「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」が登場します。ただし「なんとなく密集」「なんとなく散開」といった感じではないか、と著者は考えています。ともかく日本の中世では、(中央集権的な)陣形は存在しなかったようです。つまり「軍隊」ではなくて「軍勢」同士の戦いと表現するべきなのでしょう。
 「定型」としての陣形が登場するのは、戦国時代、とくに上杉謙信と武田信玄に著者は注目しています。この二人が「陣形」を重視できたのは、国力・権力の強さと「川中島」という舞台が大きく作用していたのかもしれません。「相手が“陣形”を採用するのなら、それに対抗するためには自分も」となるのは自然なことですから。
 平和となった江戸時代に、さまざまな「陣形」が論じられましたが、これは結局空理空論を弄ぶばかりだったようです。そういえば剣術も江戸時代にはちょっと奇形的な発達をしましたね。平和な時代には「戦争の技術」を論じることはファンタジーの方向に発展するものなのかもしれません。


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