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2015年10月25日07:46

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不安や心配に負ける目的

 何か未知のものに取り組むとき、不安や心配を感じるのは人として当然のことです。しかし、何もする前からそういった不安や心配に負けて立ちすくんでしまう人がいます。これが私には不思議です。何かをして失敗してそれに対する対策を考えつかなくて困っているのならわかるのですが、何もする前から「失敗したらどうしよう」などとくよくよしているわけですから。ただ、これは負けているのでなくて「熱中している」と解釈する手があることに気づきました。つまり、不安や心配に熱中することで、その本来の「何か」をせずにすませているわけです。

【ただいま読書中】『倒壊する巨塔 ──アルカイダと「9.11」への道(上)』ローレンス・ライト 著、 平賀秀明 訳、 白水社、2009年、2400円(税別)
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 アルカイダのルーツは、実はアメリカにありました。ここで話は1948年に戻ります。まだ「イスラム原理主義」というものが存在していなかった時代です。エジプトで反体制的な活動で政府に睨まれたサイイド・クトゥブという作家がアメリカに渡りました。イスラエルとアラブの戦争ではイスラエルが圧倒的な勝利を得ていました。アメリカでは赤狩りの嵐が吹き荒れていました。クトゥブは、それまでアメリカに敬意と期待を持っていましたが、実際のアメリカ生活で、アメリカ人の性的放埒さ・無知・宗教心の欠如などに強い印象(反感)を抱いて帰国します。エジプトでは、イギリス軍と国王が追放されます。はじめは蜜月状態だったナセルとムスリム同胞団は、軍事社会か宗教社会の二者択一の敵対関係に陥ります。ナセルは同胞団を弾圧し、クトゥブを投獄。拷問の後死刑に処します。しかしクトゥブの「過激なことば」が残されました。
 クトゥブの私物のコーランを特別な形見として受けたのは、15歳の弟子アイマン・ザワヒリでした。1967年第三次中東戦争(6日戦争)。イスラエルに圧倒的な勝利を許し、敬虔なイスラムは「神も仏もあるものか」の心境になります。「神」がユダヤの側についた。だったら「信仰」と「反ユダヤ」を徹底して、かつてユダヤを支配したイスラムの栄光を取り戻すべきだ、という運動が盛んになったのです。そのためにはまず「近い敵(世俗的なイスラム政権)」を打倒し、ついで「遠い敵(イスラエルとそれを支援する不浄な西洋)」に取り組む必要があります。学生たちは過激な思想を持つ「細胞組織」を大学の中に作ります。ザワヒリはカイロ大学医学部でひそかに「細胞」活動をおこない、1980年にアフガニスタン難民救援活動を開始します。ザワヒリはそこで(アフガンに侵攻しているソ連ではなくて)アメリカをターゲットとした「聖戦」を考え始めています。エジプトではサダト大統領とイスラム主義者の対立が深まります(イスラエルとの単独講和を実現したことがイスラムに対する“裏切り”だったのです)。サダトが暗殺され、その後の混乱でザワヒリは逮捕、3年の刑を申し渡されますが、そこでの体験(拷問、同志に対する敵対的証言をしたことへの後悔)が彼の過激さをさらに先鋭化させた、と著者は推定しています。出獄後サウジへ。そこでビンラディンと出会ったようです。
 移民としてムハンマド・ビンラディンがサウジアラビア王国(ここもまた、王権と宗教との対立が複雑です)にやって来た年に、サウジで石油が発見されました。レンガ積み職人から始めたムハンマドは国王お気に入りの土建業者として大富豪へと成長します。ムハンマドは子だくさんで、正式に認知しただけで22人の妻からの54人の子供がいます。妻アリアとの間に1958年1月に生まれた男の子(17番目の息子)は「ウサマ(ライオン)」と名付けられました。ウサマは最初は「穏健なイスラム」でしたが、クトゥブの本に出会い「過激派」に変身します。ソ連がアフガニスタンに侵攻。ウサマは行動を起こします。資金を集め、パキスタンにアラブからの聖戦士のためのキャンプを作ったのです(この「基地(カイーダ)」がのちの「アルカイダ」の名前の元です)。しかし「アフガニスタンでのジハード(聖戦)」という認識は、ムスリム社会に亀裂を生みます。ジハードを認める人たちと認めない人たちに分裂してしまったのです。エジプトでは「タクフィール・ワ・ヒジュラ(断罪と逃亡)」という急進的なグループが台頭します。アルカイダの先駆とも言える組織でした。この組織はすぐに潰されましたが、コーランに「殺人者を罰するとき以外何人も殺めてはならない」と書かれているのを「背教者は殺して構わない(そして、背教者かどうかは自分たちが判断できる)」と読み替える方法論は他のグループに継承されました。
 アフガニスタンからソ連軍が撤退しますがアラブの“ジハード”は継続しています。戦う相手は本来同じムスリムであるはずのアフガニスタン政府軍に変わっています。共産党政権だから敵なのです。さらにアフガン内部のムジャヒディン各派は内戦を始めます。先を見通せず帰国したウサマ・ビンラディンは、自分が「セレブ」になっていることを発見します。国際義勇軍を率いて超大国を撃退した英雄、という扱いなのです(実際には“おとぎ話”だったのですが)。ウサマの名声が高まると、相対的に王族の人気が落ちます。王族はビンラディン一族とこれまで密接な関係でしたが、ウサマを警戒するようになります。ウサマはイラクの野心に警報を鳴らしますが、無視されます。そしてイラクのクウェート侵攻。サウジはアメリカ軍を受け入れます。アメリカを追い出すため、ウサマは政府、ついで宗教界に働きかけます。しかし政府と宗教はアメリカ軍駐留を容認してしまいます。
 スーダンで軍事クーデターが起き、その立役者ハッサン・トラビはスーダンを中心とする国際的なウンマ(ムスリム共同体)設立を夢見て、そのためにウサマ・ビンラディンを招聘します。「アルカイダ」はスーダンで堂々と活動できるようになります。旧敵のシーア派とも共闘できるかどうか試すためにおこなわれた1983年の自爆攻撃(在ベイルートのアメリカ大使館、アメリカ海兵隊基地、フランス空挺部隊基地)で300人以上のアメリカ兵と58人のフランス兵殺害に成功し、ビンラディンは自爆攻撃の威力を知ります。さらに「敵の軍隊ではなくて民間人を殺すのも良いこと」という理論武装にも成功。そしてビンラディンの目は、世界貿易センタービルに向けられます。
 1993年2月26日、世界貿易センタービルの駐車場に爆弾を積んだ車が入ってきました。ビンラディンの命令だったかどうかは不明です。ただ、その車を運転していたのは、アフガニスタンのアルカイダ・キャンプの卒業生であることは間違いありません。
 西洋はまだ「ビンラディン」も「アルカイダ」も知りません。サウジアラビアはその危険性を知っていました。だからウサマの国籍を剥奪、一族はウサマに背を向けます。これもまたウサマを危険な方向に駆り立てるのでした。


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