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2015年08月14日07:11

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反知性主義とは

 シャーロック・ホームズの前で「容疑者の自白さえあれば、証拠も捜査も推理も不必要だ。こいつが真犯人だと強い確信が自分に持てたら、自白さえ要らない」と主張すること。

【ただいま読書中】『火花』又吉直樹 著、 文藝春秋、2015年、1200円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4163902309/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4163902309&link_code=as3&tag=m0kada-22
 テレビで著者を見たことがあるのは一度だけ、「爆笑レッドカーペット」でジョン・レノンの「イマジン」をネタに無理な「イマジン」を客に強いるおかしさは静かな破壊力を持つものでしたっけ。ただ、私は本書で「作者」を読みたいわけではなくて「作品」を読むつもりなので、上記のことは頭から振り払ってページを開きます。
 売れない若手芸人徳永が、たまたま出会った「師匠」神谷。普段の生活から「漫才師」で、普通の顔をして普通のことを言うのは「ボケ」のとき、という、お笑い業界の外の人間にはとってもわかりにくい人です。いや、業界の人間にもわかりにくい(あるいは拒絶反応を惹起する)人でした。
 強烈な個性を誇る「師匠」ですが、その強烈さよりも私はその強烈さに破壊されない徳永の強靱さの方に驚きを感じます。本人はその“強さ”にまったく無自覚ですが。同時に連想するのが映画の「アマデウス」です。モーツァルトの才能を見抜き自分がそれに及ばないことを自覚するサリエリの立場を徳永が演じているのか、と。ただ映画と違うのは、『火花』では“モーツァルト”も“サリエリ”もまったく売れていないことですが。
 圧倒的な疾走感で行き当たりばったりのように走っていた物語ですが、最後はちょいと尻すぼみ。最初はきちんとかみ合っていた二人の会話が、それぞれの変容(あるいは変化の無さ)によって少しずつ不協和音が生じるようになっていくのを見るのは悲しいことです。そしてそれが破綻へと向かっているのですが、ただ、漫才師についての巨大な漫才の物語だったら、きちんと破壊的なオチをつけて欲しかったな、と私は無い物ねだりをしてしまいます。
 私はここで語られる若き漫才師たちの会話から、ずっと昔の文学青年たちの熱い議論のことを連想していました。過敏なくらいの感覚の鋭敏さ、無神経と紙一重の無邪気、思いと直結する行動、自分でもコンロトールできない破壊衝動、永遠に満たされぬ欲望など、共通点がやたらと多いと感じたのです。というか、むかし文学青年をやっていた層の人たちが現代では音楽や映像やお笑いの世界にたむろしているのかも知れません。ただ、文学の場合には「読者との関係」は「本が売れるかどうか」というけっこうな遅延反応ですが、お笑いの場合には「その場で客の笑いが取れるかどうか」という残酷なまでの直裁的な反応であることが違います。これはおそらく“ネタ”を仕上げる過程に大きな影響があるはず。では、お笑いの世界の人が文学を書いたらどのような仕上がりに? その答えの一つが、本書でしょう。だけど、もっと別の形の“回答”もあるはず。私はそれらも読みたい気分です。文学にはまだまだ可能性があるはずですから。


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