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2015年08月13日07:18

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将来の帰省ラッシュ

 世間ではお盆だそうで、帰省ラッシュが始まったそうです。
 ところで今の高齢化と過疎化が進んで限界集落がどんどん潰れていったら、この帰省ラッシュもなくなるのでしょうか。

【ただいま読書中】『戦時下のベルリン』ロジャー・ムーアハウス 著、 高儀進 訳、 白水社、2012年、4000円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4560082553/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4560082553&link_code=as3&tag=m0kada-22
 激しい「戦争」を体験した首都ベルリンで生きていた「人々」が、実際にはどのような人でどのような生活をしていたのかを、広範なインタビューと文献資料から構成した本です。
 1939年4月20日「総統の誕生日」の大々的な祝典の光景は映像に残されています。しかし祝典に参加しなかった人たちも多くいました。ただし、自身の内心を公言はしません。したら逮捕されますから。
 同年9月1日、ポーランド侵攻が発表された日。ベルリンを支配していたのは、重苦しい静寂でした。突然の「戦争勃発」にぽかんとする人もいましたし、第一次世界大戦の記憶を持っている人たちは「一生に二回の戦争は多すぎる」と呆然とします。もちろん声高に熱狂を示す人もいましたが、映画館のニュース映画で総統の姿が登場して嵐のような喝采を引き起こさなかった最初の日でもありました。それでも人々は楽観的になろうとします。戦争はすぐに終わるだろう、と。
 戦争が進んでも配給制度はなんとか維持されました。それだけでは生きていけない量ではありましたが。人々は、家庭菜園・闇市場・田舎への買い出しなどでなんとか生き延びようとします。動物園が爆撃されたことは、胃袋にとっては朗報でした。出所が明らかにされない「肉」がベルリンに大量に出回ったのです。
 爆撃と言えば、夜間爆撃は慢性的な睡眠不足を市民に強いました。空襲警報のサイレンが鳴り高射砲の射撃音があたりに響き渡ります。たとえ自分の地区が爆撃の対象ではなくても、防空壕に行かなければ地区防空責任者が「どうして避難しないのだ」と自宅まで押しかけてきます。それでも、防空壕に行けるだけマシだったのですが。ユダヤ人は共同防空壕には入れないのですから。「気晴らし」として防空責任者の目を盗んで空を眺める人もいました。探照灯・砲弾の閃光・曳光弾・落下傘照明弾の「光のショー」は非常に印象的だったそうです。自分の頭上に爆弾が落ちてくるか、防空責任者に見つかるまでの“楽しみ”でしたが。戦争最後の1年でベルリンは150回の爆撃を受けたそうです。
 41年10月からベルリンのユダヤ人は「再定住」のために国外追放されることになりました。目指すは「一時滞在所」。財産は容赦なく没収され、次に“没収”されるのは生命ですが、ベルリンを出発するときにはそのことは誰もわかりませんでした。42年末までにベルリンからは82回の移送が行われました。しかしやがてホロコーストの噂が。現場を目撃した兵士の話、実行者の自慢話、ゲットーに出した郵便物が「宛先人死亡」で戻ってくる、などで噂が国内に着実に広がります。最近の調査では、ドイツ国民の1/3(ベルリンでは28%)がユダヤ人虐殺について何らかの形で知っていた、と結論づけています。ただ、「噂を知っている」と「噂を信じる」は別の問題です。なにしろ「ある人種が工業的に殺される」というのは、多くの人間の想像力を越えていますから。
 強制移送通知を受けたユダヤ人の10%は自殺をしたそうです。「地下」に潜る者もいました。友人(当然非ユダヤ人)に匿ってもらうのです。「アーリア人」には、反ユダヤ主義の人も、そうではない人もいたのです。ただし、ユダヤ人の運命については無関心なベルリン市民が最大多数でした。
 児童疎開も悲しい物語です。当時都会からの児童疎開を行ったイギリスや日本でも、似たような物語があったことでしょう。
 プロパガンダでナチスが特に重要視したのがラジオでした。ところが外国の電波もドイツには届きます。そこで「外国の放送を聞くと投獄。聞いた内容を周囲に広げて士気を下げたら最高で死刑」と法律で定めます。ただしその摘発は難しいので、密告が奨励されました。「ロンドンを聞く」(BBCをこっそり聞く)人たちは、晩に女中は映画にやりラジオに毛布を掛けて最低音量にしたスピーカーに直接耳を当てて聞いていました。そういった人たちは、単に反ナチの人もいましたが、「BBCの音楽番組が好き」という人もいました。“悲劇”も起きます。たとえば「戦地で行方不明の兵士が、外国の放送(たとえばソ連の「自由ドイツ」)で生きていることがわかって、それを聴いた人が家族の人に「息子さんが生きていましたよ」と“良いニュース”を届けたら、家族は喜ぶが同時にゲシュタポに密告した」なんて事例。そのため「良いニュース」を伝えるために、様々な工夫がされました。匿名の郵便(44年のものが公文書館に保存されているそうです)や近所の人たちが何人も「息子さんが生きていてイギリスの捕虜収容所にいる、という『夢』を見た」とやって来て言う、とか。
 ナチスはラジオで流す音楽も統制しようとしました。たとえば「リリー・マルレーン」をゲッペルスは「病的」「非英雄的」と排除しようとしましたが、前線の兵士からのリクエストが殺到したためその決定を引っ込めた、なんてこともありました。
 「レジスタンス」として活動的だったのは、共産主義者のグループ、キリスト教特に「告白協会」などでした。しかし市民のほとんどは沈黙を守り、レジスタンスグループのほとんどにはスパイが潜入し、グループは次々摘発されます。ただ、消極的な“レジスタンス”を実行する人もいました。たとえば朝の挨拶として「ハイル・ヒットラー」ではなくて「グーテン・モルゲン」を言う、とか。特筆すべきは43年にベルリンに最後に残ったユダヤ人グループの一斉検挙で、逮捕された人たち(異人種間結婚をしたユダヤ人)の家族の女性たち(非ユダヤ人)が1000人も集まって集団で抗議した“事件”です。1週間以上毎日その行動は続き、とうとう1800人のユダヤ人は釈放されます(その前にアウシュビッツに送られた25人はベルリンに呼び戻されました。ドイツ流の几帳面さです)。この事件は「成功したレジスタンス」として特異ですが、ベルリンに残ったユダヤ人たちに自分たちが死と直面している事実を突きつけました。多くのユダヤ人は「地下」に潜ります。戦時中のドイツで1万〜1万2千のユダヤ人が潜ったと推定され、そのうちの半数はベルリンででした。もう一つ推定値が示されています。一人の逃亡ユダヤ人を助けるためには平均7人のドイツ人の協力が必要だった、と。戦時下のベルリンで? 逃亡中のユダヤ人には食糧配給がありません。だったらその食い扶持をどうやって確保します? とても難しい選択を強いられる生活です。逃亡ユダヤ人を助けたドイツ人が捕まったら、最高は死刑、最低は微罪ですんだようです。ただの避難民や戸籍を失った爆撃の被害者を助けていただけ、という言い訳が通用した場合もあったのでしょう。
 逆に、ゲシュタポに捕えられ、その後逃亡ユダヤ人を密告することで生計を立てていたユダヤ人もいました。悲しい話です。
 「最後の日」、150万のソ連軍に対するベルリン防衛隊は9万人でした。そこでベルリン市民が受けた扱いは、(別の本からの引用になりますが)「略奪と強姦の夜」でした。強姦された女性の1割が自殺し、翌年生まれた子供の5%が「ロシア人の子」だったと推定されているそうです。満州〜朝鮮のソ連軍支配下で何があったかも私は思い出します。
 本書の冒頭で著者は宣言しています。「戦時下のベルリン市民が、破局に向かって夢遊病者さながらに進んで行く、ナチ化されたロボット人間の洗脳された大衆だったと想像するなら、大事な点を基本的に見逃していることを本書が立証するのを願っている」と。「ベルリンは、少数の活動的なナチと、活動的な反ナチが、どっちつかずの大衆の両端に存在していた都市だった」とも。つまり「彼ら」は「われわれ」とはそう違わない、と。たしかに、「彼ら」は「われわれ」とはそう違わないようです。ただ、ユダヤ人を匿ったりレジスタンスを「われわれ」ができるかどうか、それは大きな疑問ですが。


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