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2015年08月02日06:30

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復員

 外地から内地に引き揚げてきた人たちの苦労や、そういった人(の居候)を受け入れた人たちの苦労話は聞いたことがありますが、ないない尽くしの中で引き揚げ作業に従事した人たちの苦労話を聞いたことはありませんでした。今日は、そういった話の本です。

【ただいま読書中】『あゝ復員船 ──引揚げの哀歓と掃海の秘録』珊瑚会 編、騒人社、1991年、1456円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4882900114/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4882900114&link_code=as3&tag=m0kada-22
 「珊瑚会」は、旧海軍経理学校生徒第35期のクラス会の名称だそうです。終戦直前に卒業してほとんどそのまま引き揚げ任務に就くことを命令された人たちです。
 敗戦時、海外にいた軍人軍属・一般邦人は約630万人(当時のオーストラリアの全人口に匹敵する数)でした。日本海軍で使える艦艇は132隻18万トン、GHQが復員輸送に使用を許可した民間船舶は55隻でした。食糧不足で餓死が現実化している日本で、残り少ない船の使い道は他にも強く求められていたのです。蒋介石は国府軍を日本に進駐させるつもりでしたが、満州での内戦が激化してそれを断念。そのため兵員輸送に当てられるはずだった米軍艦船が日本の復員輸送に回されることになりました。食料は海軍の備蓄から出されましたが、燃料は米タンカーから補給されました(お金は誰が払ったのかは本書には書いてありません。経理学校出身者だからそのへんには敏感だっただろうと思うのですが)。計算上はこの輸送力では復員には5年はかかると思われていました。しかし実際には2年足らずで完了。おそらく関係者が必死に働いてくれたおかげでしょう。ただ、不心得者もけっこういたらしく密輸や「銀バエ(物資の横領)」も横行していたそうです。
 各艦に主計長として珊瑚会のメンバーは配属されました。ただし海軍省は第二復員省になったので、武官ではなくて文官としての身分です。乗組員だけではなくて、引き揚げる人たちの食料も確保しなければならず、主計官の任務は重大でした。さらに乗せる人たちは、定員の倍くらい、船内はひとでぎゅうぎゅうです。しかし、一人でも多く、少しでも早く内地へ、と船はピストン輸送を続けます。呉空襲で損害を受けた空母も修理して使われていました。でかくて速くて5000人も乗れるので、重宝されたそうです。
 輸送した艦艇だけではなくて、掃海艇も“活躍”しています。なにしろ戦争中に日本近海にばらまかれた機雷は6万1千個だそうですから。掃海作業そのものは昭和40年代まで続きましたが、戦後10年間に触雷して被害を受けた艦艇は18隻・民間船は161隻だそうです。米軍も、航空機からばらまく時には後の処理のことは考えていなかったようです。
 「敗戦処理」でマニュアルが全部焼却され本来の乗組員もいないため艦を動かすためにひどい苦労、艦長と大げんか、公開中の出産など、実際に現場にいた人が経験した話が次々登場します。てんやわんやです。収容所にいた人たちが餓死寸前で衰弱していて、日本を目の前にして船内で死んでいく姿には涙が誘われます。
 ちょっと変わったエピソードは、捕鯨です。大洋漁業に配属された人が、昭和21年に小笠原で戦後初の捕鯨を行なっています。食料難を少しでもなんとかしようと努力していた人たちがここにもいます。


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