mixiユーザー(id:235184)

2015年07月26日07:38

396 view

「○○人」は実在する?

 「ユダヤ人」は劣等人種だ、と主張してその根絶を画策したのはナチスでした。では第二次世界大戦後「ドイツ人はひどいことをした」と主張して「ドイツ人」を罰することを主張した人々についてはどうでしょう。「ユダヤ人は××だ」と「ドイツ人は××だ」とはそっくりではありません? つまり、ナチスと原理的には同じ主張をしていることになりそうです。
 ところで「ドイツに住むユダヤ人」は「ユダヤ人」ですか?それとも「ドイツ人」? 「ポーランドに住むドイツ人」は?

【ただいま読書中】『われわれの戦争責任について』カール・ヤスパース 著、 橋本文夫 訳、 ちくま学芸文庫、2015年、1100円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480096698/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4480096698&link_code=as3&tag=m0kada-22
 本書の内容は、著者が1946年1月〜2月に講義として行い、その後に出版されたものです。そういえば著者の『哲学入門』も戦後のラジオでの連続講座をまとめたものでしたね。まず語りかける、というスタイルが好きな人だったのでしょうか。
 まず論じられるのは「罪」です。著者は「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳的な罪」「形而上的な罪」に分類します。「罪の結果」はそれぞれ「裁判による処罰」「責任が問われ償いと政治上の権力・権利の喪失・制限」「洞察と罪滅ぼしと革新」「自覚の変化」となります。裁判は司法制度によって執行されます。政治上の罪の場合は、特に戦争の場合は戦勝国が裁く“権利”を持ちます。しかし道徳上の罪は「個人」が自分を裁きます。形而上的な罪は一神教の世界では神が裁くことになりますが行動はやはり「個人」が行うことになります。
 ここで難しいのは「個人」が出てくることです。人は大体「自分が間違っている」とは認めたくないものです。戦争の場合、それにプラスしてひどい目に遭ったという被害者意識がそこに加わります。さらに「自分が犯したのではない犯罪行為」について責任があると言われたらきょとんとしてしまいます。さらに「個人が自分を裁く」ということを大義名分に「自分は自分を裁いた。後悔している。はい、おしまい」と上手く“逃げ”ようとする人も多く登場します。しかし著者はそういった逃避を許しません。「一生重荷を背負い、われわれの魂の本質を成熟の域に達せしめるべき」と言うのです。
 「無法な政府に抵抗をしなかったから、一蓮托生の“有罪”だ」という主張を著者は退けます。強制収容所で殺された人たちは、抵抗をしたから殺されたのですが、これこそが抵抗が無意味だったことの証拠です。組織と指導者がいなければ、有効な抵抗はできないのです。著者自身、妻がユダヤ人であることを理由に大学を追われ、妻の引き渡しを自宅に立てこもることで拒否し、とうとう二人とも強制収容所へ、というギリギリのところで連合軍の侵攻に救われた、という経験を持っていますが、そういった人も「政府に抵抗をしなかった」と扱うのは不当だ、とも思えます。
 「戦勝国にも罪があるのではないか」という疑問には「すべての人間に共通の罪だ」と著者は応えます。ただしそれによって自分たちが免罪されるためではなくて、自分たちの罪をきちんと認識するためにその分析が必要なのだ、と。
 ヤスパースはこの講義で、「ドイツ人」にだけではなくて「全人類」に語りかけているように私には感じられます。そしてその「全人類」には「現在の我々」も含まれている、と。ヤスパースは「敗戦責任」ではなくて「戦争責任」を問います。簡単な回答は出してくれません。個人にかかわる罪は「個人」が考えることだから、「我々」が自分で考えなければならないのです。たとえば「敗戦責任(負ける戦争に国を引きずり込んだ)」は「政治責任」に属すると私は考えますが、するとその責任を問われるのは「政治家や高級軍人」で問うのは「敗戦国の国民」であるべきではないか、なんてことを私は思います。すると「A級戦犯」は「敗戦責任」なのでしょうかそれとも「戦争責任」?
 こういったややこしいことをもうこれ以上考えなくてすむ一番簡単な方法は、もう戦争をしないことかな、なんて「過激」なことを私は思います。


2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年07月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031