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2015年07月12日07:12

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冷戦は終わっていない

 戦争と戦争の間を平和と呼ぶのだったら、冷戦もまた平和の別の呼び名だったと言えます。だったらかつての冷戦は、ベルリンの壁やソ連の崩壊で終わったのではなくて、プレイヤーをロシアや中国に変えて別の形の冷戦として現在も継続中なのかもしれません。

【ただいま読書中】『学問のすゝめ』福沢諭吉 著、 檜谷昭彦 訳、 三笠書房、1983年、890円
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 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は非常に有名な言葉ですが、この言葉が置かれた「時代」が明治の初めであることを忘れてはいけないでしょう。さて、「人は平等である」が本書の出発点ですが、ではそこから何が起きるかと言えば「学問」です。それも「実学」。学問をせずに無知蒙昧のままでいたら、政府はそういった人を管理するために独裁となります。それを防ぐためにも、強制的にでも学問をさせるべきだ、と著者は主張しています。
 人の権理通義(権利)は、人民も政府もすべて平等です。その意味を広げて国について考えると、国と国も同等だ、となります。各国の国民はすべて平等で、国はその平等な国民が集まって形成されているのですから。もちろん国の強弱があります。そこで強国に圧倒されないために著者が主張するのは「個人の独立」です。それと国を守る気概。
 「四編」には、日本の未来を悲観する(将来独立が失われるのではないかという)意見が紹介されています。欧米列強と比較してあまりに日本が遅れている、という認識がその悲観論のベースにあるようです。ではどうするか、単に形(制度や法律)だけ“輸入”するのではなくて、西洋文明の本質(自由、平等、政府と人民の関係など)を学ぶべきだ、それも個人レベルで、というわけで著者は「塾」を作るわけです。ただ、暗殺や戦争を首尾一貫して否定している点で、松下村塾とはずいぶん趣が違います。
 「五編」で著者は、「中流」を分厚くしろ、と主張します。学問だけではなくて経済でも「中流」を増やし起業を盛んにしたら国が栄える、と。
 しかし、忠臣蔵を否定し、国を憂える志士の行動も否定するのですから、著者は度胸があります(敵討ちも暗殺も、文明人としては国法を犯す私刑だから、という理由です)。志士を讃え暗殺が横行する明治の世の中でこんな主張を堂々とするには、度胸が相当必要だったことでしょう。
 もしも福沢諭吉が平成の日本を見たらなんて言うかな、なんて私は妄想します。あまりに“文明化”の速度が遅いのに、あきれるかな?


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