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2015年07月08日06:34

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動物の姿

 現代日本社会を小説やルポで描くと、そこには「動物」の姿が非常に少ないことでしょう。出てくるのはペットか、あるいは「害獣」くらい。
 だけど「ヒト」だけがこの日本に住んでいる動物ではないはず。動物“不在”の日本って、とっても「不自然」なことではないですか?

【ただいま読書中】『馬と人の江戸時代』兼平賢治 著、 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー398)、2015年、1700円(税別)
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 江戸時代のすべての階層の人々にとって「馬」は「共にあるもの」でした。乗馬・農作業・運搬・神馬・流鏑馬・見世物の曲馬……さらには外国への贈答用としても馬は役立っていました。そういえば絵馬も本来は「本物の馬」でした。
 ちなみに「馬の“重み”」には、東は馬・西は牛、と東西で差があります。「名馬の産地」も東日本が主でした。盛岡藩では「雑書」に書き留められた農家の家事の記録で「人馬怪我無し」が常套句として使われ、飢饉では「人馬減少」と記録されています。古くは奥州藤原氏から天皇家・摂関家に名馬が贈られていました。武士にとっても馬は「戦力」であると同時に「身分の象徴」でした。だから信長や家康は、南部馬を重視しています。しかし平和が続くと維持費のかかる馬は家計の負担となります。そのため下級武士は馬を手放さざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。
 「将軍の馬」は特別扱いで、江戸幕府では「御馬買衆」(幕府馬方の旗本二人)が定期的に東北地方をほぼ一巡するコースを巡回していました。各藩は御馬買衆を丁重にもてなしていますが、それは「馬を買う」だけではなくて「公儀の目と耳」としての役割を意識していたからでしょう。幕府だけではなくて大名や旗本も各地または江戸藩邸から「馬買」を東北(特に南部馬の産地)に派遣していました。盛岡藩としてはこれは交通・物流のチャンスであると同時に、大名・旗本との交流のチャンスでした。
 綱吉の時代に幕府の馬の買い入れは減少していますが、吉宗の時代にまた増えました。将軍の性格を馬が物語っているようです。吉宗は大柄な馬を好み、洋馬の輸入も行いました。在来馬の背丈が標準で四尺に対して、輸入された「春砂」は五尺だったそうです。ただし洋馬は子孫は残さずその石碑(「唐馬の碑」青森県三戸町)だけが残っているそうです。
 馬の流通を担当したのは馬喰(ばくろう)ですが、詳しい研究があまりないそうです。昭和の前半まで馬喰は健在でしたが、社会的な階層としては下の扱いだったから、学者にはあまり注目されなかったのかもしれません。「馬薬」を駆使する「馬医」もいました。こちらも詳しい研究はないようです。いろいろ面白い世界がありそうなんですけどね。
 人馬に害を為したのは、野火と狼でした。野火に対しては逃げるくらいしかありませんが、狼に対しては鉄砲や毒薬での駆除が行われていました(だから村には鉄砲が「農具」として配備することが認められていました)。
 農馬が死んだ場合、村はずれの馬捨て場に死体は捨てられました。西日本では馬皮が利用されていましたが東日本では江戸前期にはあまり利用されていませんでした。しかし19世紀には、ロシアの接近がきっかけで軍需が高まり、それにつれて馬皮の需要も高まりました。ただ、鹿皮や牛皮の方が品質が高く、馬皮が引っ張りだこという状況ではなかったようです。
 明治時代になると、軍馬として品種改良が盛んに進められ、国産の馬はどんどん姿を消してしまいました。政府の方針は狼よりも強かったようです。


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