mixiユーザー(id:235184)

2015年07月04日07:21

259 view

宣戦布告なき爆撃

 日本が中国を侵略した時、臨時首都になった重慶に爆撃を行いました。これを連合国側は「宣戦布告もしないで都市に無差別爆撃をした」と非難しました。日本軍のハワイ奇襲も「宣戦布告がなかった」とものすごい非難です。
 ところでベトナム戦争の時、アメリカは北ベトナムに「北爆」(北ベトナムの爆撃と機雷封鎖)をおこなっていました。あれって「宣戦布告なしの爆撃」なんですけどねえ。そういえば湾岸戦争やイラク戦争でも、爆撃はありましたが宣戦布告はありましたっけ?
 もちろん、宣戦布告があれば爆撃をして良い、と言うつもりはありません。爆撃することが好きな人間は、一度自分の家が爆撃を受けてみれば良いのに、くらいは思いますが。

【ただいま読書中】『ハノイの灯は消えず ──「赤旗」特派員の見たベトナム戦争』木谷八士 著、 新日本出版社(新日本新書185)、1974年
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J9GJS4/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=B000J9GJS4&link_code=as3&tag=m0kada-22
 1970年、「赤旗」特派員として著者はハノイに入ります。アメリカはそろそろベトナムから手を引くことを考え、南ベトナム政府軍の自立を願っていました。その“テスト”として行われた71年のラオス侵攻の「ラムソン719」作戦などはことごとく失敗。72年には“ベトコン(実際には主力は北ベトナム軍)”の大攻勢が始まります。ニクソン大統領は報復としてハノイを爆撃しますが、それで著者は肝を冷やすことになります。
 北爆被害の現場で取材した著者は、防空に携わるのが女性ばかりであることに驚きます。それも当然で、男はほとんど前線に送られていたのです。学校、病院などが破壊された跡を見せられ、著者は憤激します。これは「北ベトナム政府が外国人ジャーナリストに見せたいところ」を見ているわけですからその分は割り引く必要がありますが、それでも学校や病院の爆撃にどんな軍事的意味があるのだろう、とは思います。
 さらに、北ベトナム政府の“案内”は不要になります。北爆が激化し、「爆撃現場」は著者の目の前に勝手にやって来るようになります。さらに撃墜されたB52の機体も。72年のパリでの平和交渉が難航している時、プレッシャーをかけるためか、ニクソンは12日間連続でハノイを爆撃したのです。しかし爆撃にさらされ家族を失いながら、人々は妙な明るさとユーモアを持って著者に接します。もしかして「強さ」とは「ユーモア」と親和性があるものなのでしょうか?
 そして73年5月11日、ベンハイ川(北ベトナムと南ベトナムの間、北緯17度線の臨時軍事境界線)に新しくかけられた浮き橋を、北から南に著者は渡ります。念入りに2度も。
 完全に一方的な立場によるルポです。南ベトナム政府軍は「かいらい軍」、ベトコンは「解放軍」、アメリカ大統領は「ペテン師ニクソン」。この「反米」の態度は、著者が赤旗の特派員という立場からのものでしょうが、もう一つ、著者の戦争体験(終戦時に小学4年生)もありそうです。「アメリカにひどい目に遭わされた」体験を持った日本人の多くは、戦後は表面上は対米従属の道をえらびましたが、表も裏も反米を貫き続けた人もいた、ということでしょうか。



1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年07月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031