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2015年05月19日06:31

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白い割烹着

 STAP細胞が初めて報道されたときの写真の一枚が「白い割烹着」でした。その時は一瞬懐かしい気分になりましたが、昭和の時代に実際にお袋が白い割烹着を着ていたのは、近所のお葬式の手伝いの時くらいだったでしょうか。普段は柄物のエプロンをしていたように私は記憶しています。そもそも白かったら汚れが目立ちますから、普段使いにはちょっと使いにくいですし。
 もしかしたら白い割烹着は一種の「晴れ着」だったのかもしれません。そういえば国防婦人会でも“制服”は白い割烹着でしたっけ。

【ただいま読書中】『戦国大名と読書』小和田哲男 著、 柏書房、2014年、2200円(税別)
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 江戸時代の「寺子屋」のルーツは、「寺」にあります。戦国時代には寺が教育機関として機能していたのです。
 戦国大名は、後継者確保のために男子を必要としましたが、数が多すぎると無用の殺し合いが起きます。また、自分たちが殺戮を“仕事”として行っているため死後地獄に行くことを恐れてもいました。そこで、余剰の男子を寺に送り込むことにしました。一種の“罪滅ぼし”ですし、これだと、もし後継者が早世した場合も寺から還俗させるという“後継者のスペア”としても使えます。
 寺で教材として使われていたのは、四書五経や「貞永式目」、あるいは「孫子」。北条早雲は孫子の兵略を実戦に応用していました。孫子は当時人気があったようですが、実際に応用できた人は、それにプラスして自分の工夫ができた人、たとえば武田信玄とか黒田官兵衛の名前が挙がっています。
 戦争では占いも重要でした。その教授で有名なのは京都五山ですが、それより規模が大きかったのが下野国の足利学校です。学生数が三千ですから、マンモス大学です。そこで易学を学んだ「軍配者」が、各国の軍師として採用されることになりました。
 戦国大名が好んだ本として「太平記」「平家物語」なども挙げられます。このへんは“意味”がわかります。ところが王朝文学の「源氏物語」や「伊勢物語」が登場すると、私は目をぱちくり。ただ、連歌の会などで恥をかかないための基礎教養としてそういった本を読んでいたらしいのです。たとえば明智光秀の有名な「愛宕百韻(本能寺の変の直前「時は今あめか下しる五月哉」で始まる連歌集)」は源氏物語や平家物語を下敷きにするとわかりやすいそうです。
 本書の最後に登場する「読書大名」は徳川家康ですが、その家康が「この本、持ってる?」と問い合わせをしたのが直江兼続、というのが面白い。それも、関ヶ原の戦いの後ですから(つまり「敵」なのです)。家康は戦乱によって貴重な文献が散逸することを恐れて、「駿河文庫」に集めようとしました(実際には三部書写させ、京・江戸・駿府にそれぞれ置くようにしました)。もしかして、信長・秀吉と家康の決定的違いは「読書量」だったのかもしれません。


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