mixiユーザー(id:235184)

2015年05月11日06:44

392 view

ロシア文字

 私が昔聞いた「伝説」は、文字がなかったのでロシア皇帝が「文字を学んでこい」とヨーロッパに学者を派遣、ところが帰途に船が難破して文献はすべて失われ、学者が記憶を頼りにアルファベットを復元したので、「R」がひっくり返ったり並びが変になってしまった、となっていました。
 純真だった私はそれを一時信じていましたが、ある日「どこで船が難破するんだ?」と。ロンドンやドイツの海岸部からならバルト海かもしれませんが、パリやローマからだったら、陸路でしょ? 正教の中心地コンスタンティノープルからも陸路になりそうです。一体どうやったら難破できるのかな?

【ただいま読書中】『キリール文字の誕生 ──スラヴ文化の礎を築いた人たち』原求作 著、 上智大学出版、2014年、2500円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4324097399/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4324097399&link_code=as3&tag=m0kada-22
 9世紀初めのテッサロニキ(当時のビザンティン帝国では首都に次ぐ第二の都市、現在のギリシアでも第二の都市)は、北方から進入を続けるスラヴ民族に対する“最前線”でした。そこの軍の副司令官の息子として、メフォージイ(815年頃生まれ)とキリール(827年生まれ)という兄弟がいました。ただしこれはロシア風の読み方で、ギリシア名は「メトディオス」「キュリロス(幼名はコンスタンティノス)」です。防衛の最前線とは言え、物流に従って人は流動的に動き、テッサロニキの街や軍の中にもスラヴ人はどんどん増えていました。
 コンスタンティノスは病弱でしたが言語の天才でした。843年、少年コンスタンティノスは単身首都コンスタンティノープルに上ります。そこでみっちりと教育をうけたコンスタンティノスは、若き賢人として都で頭角を現します。しかし都で政変が。コンスタンティノスは、軍人となっていた兄メトディオスと共に修道院に隠棲します。しかし数年後、皇帝から兄弟に伝道の旅の命令が下ります。目的地は、東ヨーロッパのユダヤ教の国、ハザール。ついでモラヴィア。
 聖俗の東西対立(正教とカトリック、ビザンティンとフランク)がコンスタンティノスらの運命にも干渉します。単に「東」と「西」が対立しているだけではなくて、東西それぞれが内部対立(聖と俗の対立、聖と俗それぞれの内部での対立)を抱えていました。話がややこしくていけません。その東西の狭間におかれたスラヴ世界は、生き残るために必死です。フランクはブルガリアと組んでモラヴィアに支配の手を伸ばしたのですが、それに抗してモラヴィアの支配者ロスティスラフは「正教の伝道をしてくれ」とビザンティンに依頼をしてきたのです。ところで、モラヴィアはスラヴ国家なのですが、当時のスラヴ人が文字を持っていなかったことが伝道の障害となります。そこでコンスタンティノスらは「スラヴ語の書き言葉」を作ることにします。
 「良い書き言葉」とは「その言語(話し言葉)の音素を過不足なく書くことができる言葉」のことです。言語学という学問がまだない時代、コンスタンティノスは自身の知識と感性を頼りにします。さらに目的が「伝道」ですから、モラヴィアで使われているスラブ語の方言だけではなくて、広くスラブ語族全体に通用する書き言葉にする必要もあります。コンスタンティノスらはその条件に適う「スラヴ文字」を作り上げました。
 東フランク国王ルートヴィッヒ二世がモラヴィア侵攻をしたため、コンスタンティノスらはモラヴィアを脱出、すぐ南のパンノニア(今のスロヴェニアあたり)で文字の普及活動をした後ヴェネチア(当時はビザンティンの勢力圏内)に。しかし故国では政変が起き、後援者が失脚してしまいました。そこにローマ教皇から招待が。コンスタンティンたちは故郷の反対方向、ローマに向かいます。意外にも一行は歓待され(「西内部」での対立が影響をしていたようです)、ついで冷遇されます。そしてコンスタンティノスはローマで没します。享年四十二歳。死の50日前に修道士の誓願を立て「キュリロス」という名前を得ていますが、それをロシア読みした「キリール」が「キリール文字」の由来です。
 故国から見捨てられ、ローマでも権力闘争に翻弄され、リーダーであるコンスタンティノスを失い、もうこれまでか、という事態になりましたが、兄のメトディオスに“脱出口”が示されます。パンノニアからローマ教会に対してメトディオス派遣の要請が来たのです。ここにもまた「聖俗のややこしい対立」が関係しているのですが、メトディオスのここからの運命は波瀾万丈と言って良いでしょう。カトリックの大司教に任じられ、フランクの裁判にかけられて幽閉され、パンノニアから再びモラヴィアへ。ちょうどフランク王国が衰退しモラヴィアが勢力を拡大した時期でした。メトディオスはスラヴ語での伝道を行いますが、それを良しとしないフランク人聖職者がメトディオスを告発。一時は絶体絶命の危機に見えますが、メトディオスはそこから復活します。しかし、メトディオスの死後にもフランク側の巻き返しは行われ、とうとうメトディオスの弟子たちは苛烈な迫害を受けることになります。コンスタンティノスやメトディオスが残した文献も徹底的に破壊され、弟子たちも肉体的な迫害を受けました。人が一番残酷な行為を平気で行うのは「神の名」の下でのようです。命からがら脱出した弟子たちはブルガリアに潜伏し、教育や文献翻訳を行います。ブルガリア語もスラヴ系で、コンスタンティノスたちが作った文字がほとんどそのまま使えたのです。やがてブルガリアは、公用語をギリシア語からスラヴ語に変更(つまり言語的な独立を)します。そのときコンスタンティノスらが創造した文字(グラゴール文字)は、古典ギリシア文字を参照してより簡素な“アルファベット”へと作り替えられました。それが「キリール文字」であり、後にロシアでロシア語の書き言葉として採用されることになります。
 一つの文化の基盤がまるまる個人の創造物だというのは、すごいことだと思います。また、現在のスラヴ世界の、カトリック・正教とイスラムやユダヤ教が混在した状況が実は1000年以上前の世界の反映であることに気づくと、自分の視界が無理矢理拡張されるような感覚を覚えます。これは快感です。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年05月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31