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2015年04月15日08:44

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仕事のやりがい

 「お金のため」「自分のため」「家族のため」「社会のため」……いろいろな理由を挙げる人がいると思います。それはもう人それぞれ。ただ、私がちょっとわからないのが「家族のため」。それを言う人が「家族を持ってから就職した」のならわかります。だけど独身で就職してから結婚した人が「家族のため」と言うのは、だったら独身時代は“真空地帯”だったのでしょうか?

【ただいま読書中】『武士の奉公 本音と建て前 ──江戸時代の出世と処世術』高野信次 著、 吉川弘文館、2015年、1700円(税別)
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 自分の父のような才能ある者が封建制度の中でちっとも評価されず出世もしないことを見ていた福沢諭吉が「私の為めに門閥制度は親の敵で御座る」(福翁自伝)と書いたのは有名な話です。しかし著者は、岡山池田藩では一時は番頭(ばんがしら:家老に次ぐ家格)を努めて千五百石をもらっていた津田家が幕末にはせいぜい組頭で七百石になっている、つまり武士には人事によって昇降があることを知っています。すると、江戸時代に武士の人事は固定化されていた、というのは“固定観念”ではないでしょうか?(下がる人がいれば、その地位を埋めるために上がる人もいるわけですから)
 「殿様」は「御為第一」を求めます。しかし武士には「自分の家」だけではなくて「私」があります。戦乱の世なら「御為」は「武勲」です。しかし太平の世では、なにが「御為」でしょうか? 江戸中期の尾張家には、家臣が「不義の利益(私利)を求めること」が苦々しく指摘された文書があります。
 そういえば江戸時代は「武士道」の時代だったはずですね。でも「武士道」を強調しなければならない、なんらかの“事情”が当時はあったのかもしれません。
 筑前黒田家では、奉公の時期(播磨時代からか筑前入封以後か)と戦功の有無で家格が決定されました。ただし黒田長政は「跡継ぎが「うつけ」なら、知行は没収」と明言しています。それは黒田家だけの話ではなかったようで、鹿児島藩の藩士の日記からは試験勉強に没頭する若者の姿が見えてきます。別の手紙からは、人間関係の重要さも見えてきます。特に「悪い噂」を立てられないようにすることが、非常に重要だと考える人がいます。
 しかし「人事評価」は難しいものです。年功・家格・勤功・能力・人柄……様々なものが基準として用いられ、かえって公平性の点で“怪しさ”を生んでいました。それは現代社会でも同じですが。さらに、「性愛」での出世もあります。衆道や殿様に女性を斡旋する、などです。これは周囲の嫉妬をかいます。追従・へつらい・金、という手段もあります。著者は「そういった手段の是非ではなくて、そういった手段もまた“器量の内”とした武士たちの心を直視するべきだ」と述べています。
 封建制度の中での「滅私奉公」は、日本人の理想像の一つです。しかしそれがどこまで現実的なものだったのか、そこに著者は疑問を提出しています。だってどの武士も「私」を持っているのですから(そもそもしっかりした「私」を持っていない者がきちんとした「奉公」ができるとも思えません)。しかも武士の本領発揮ができるはずの合戦が泰平の世にはありません。そこで武士たちは、いかに「私」を押さえながらお仕事をしていたのか。本書に登場する資料を読みながら私の想像は広がります。とても人間くさくて、江戸時代の人々がぐっと身近に感じられるようになる、そんな本です。


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