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2015年04月05日07:32

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慰霊の旅

 天皇陛下は慰霊の旅を行い続けています。手近な靖国神社ですませようとは思っていない様子です。

【ただいま読書中】『玉砕の島々 ──サイパン・グアム・ペリリュー・硫黄島』平塚柾緒 著、 洋泉社、2015年、1700円(税別)
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 太平洋戦争の転機は、1942年6月5日のミッドウェー海戦でした。日本海軍は空母4隻を失い、終戦までそのダメージを回復できませんでした。陸軍は42年夏に始まったガダルカナル島の戦闘で痛手を受けます。あちこちに分散された島の守備隊は、援軍もなく、各個撃破をされていきます。大本営は最初「転進」を使い「吾が方よりも敵の損害の方が大きい」と(文字通り)負け惜しみの強弁をしていましたが、アッツ島から「玉砕」を使い始めます。こちらの方が語感が良いですから。
 アメリカ軍は、アッツ直後の43年7月に、日本を降伏させるための最後の前線基地はマリアナ諸島、マリアナ攻略の前進基地はマーシャル諸島(世界最大規模のクェゼリン環礁が艦隊泊地として絶好)、マーシャルを奪取するためにギルバート諸島(タラワとマキン)をまず奪還、という計画を策定します。タラワ守備隊は3時間でほぼ壊滅状態となり4日目に玉砕します。マキンでも23倍の米軍を相手に日本軍は玉砕します。
 タラワとマキンでは「玉砕」という言葉が使われましたが、マーシャル諸島以降では「全員壮烈なる戦死を遂げたり」と表現されました。全滅に次ぐ全滅、さらに民間人も多く巻き込まれていくことになり、「玉砕」という美しい言葉はふさわしい状況ではなくなっていったからでしょう。かわりに登場したのが「一億総特攻」「一億総玉砕」でした。
 クェゼリンでは“新兵器”が活躍しました。火炎放射器です。トーチカに立てこもる日本兵を生きたまま焼き殺す戦法です。これが効果的だったため、米軍は以後の上陸戦で火炎放射器を愛用するようになります。
 日本軍は「米軍のサイパン攻撃はない」と読んでいました。だから実際に攻撃が行われそうになって、あわてて援軍として名古屋で編成された第43師団を送り出します。しかし米軍の潜水艦攻撃で輸送船団7隻中5隻が沈められ、島にたどり着いたのは、武器をろくに持たない傷兵の集団でした。そこに第58機動部隊(空母15隻と戦艦7隻)に率いられた上陸部隊(535隻の輸送船と上陸用舟艇、12万7571名の部隊)が襲いかかったのです。島の懐は深く、日本軍は抵抗を続けますがついに力尽きて最後のバンザイ突撃を行います。残された民間人は、投降するか自殺するかしかありませんでした。そこで「バンザイクリフ」となるわけです。このとき自殺した日本人の数は、8000人とも12000人とも言われています。ジャングルに隠れて生き延びた人たちもいました。その中で、大場大尉に率いられた生存者47名は、翌年の45年12月に投降しています。
 サイパンに次いでテニアン島が攻撃されます。日本軍の死者は5000人以上、民間人の死者は3500人。米軍も上陸作戦に参加した5万4000人の内2200人が死傷しました(戦死は389人)。テニアンには飛行場が建設され、ここからB29が日本空襲を行い、さらに広島と長崎に原爆が届けられることになります。
 マリアナで残るはグアム。44年7月21日に戦いが始まりますが、この1日だけで日本守備隊2万810名の八割近くは戦死していました。戦力に圧倒的な差があったのです。敗走する軍に大本営は「玉砕戦を避け持久戦を」と打電します。しかし“現場”にそんな余裕はありませんでした。戦うどころか逃げ惑うので精一杯。軍と一緒に逃げていた“足手まとい”の民間人には自決用の手榴弾がプレゼントされたり飛び降りるのに絶好の絶壁への案内がありました。厚生省の資料では、グアム島の守備隊での生還者は1304名(+横井庄一元伍長)だけです。
 フィリピンの「外堀」となっていたのがパラオ諸島です。フィリピンの真東にあり、そこを落とされたらフィリピンが直接脅威にさらされます。そのために、ペリリュー島とアンガウル島は「玉砕の地」となってしまいました。米軍が攻めてくるのはマリアナかパラオか、と右往左往していた大本営は、関東軍を満州から引き抜いてパラオに派遣します。満州からやって来た兵士たちは、石灰岩をくりぬいての陣地構築から始めます。目的は持久戦。しかしペリリューは南北9km東西3kmの小さな島です。アンガウルはもっと小さい。しかも、滑走路があって航空隊が配属されていますが、飛行機はすでにすべて失われていました。だったら滑走路を爆撃だけして、あとは放置してフィリピンへ、という手がアメリカになかったのかな、と私には思えます。絶海の孤島の守備隊は、制海権と制空権がなかったら、無視できる存在ですから。しかし米軍は律儀に島を潰しにやって来ました。2個師団4万人で。しかし日本軍の抵抗は頑強で、アメリカ海兵隊の損害は甚大なため一時撤退を余儀なくされます。しかしついに米軍は橋頭堡を築き、多数の戦車を揚陸させました。日本軍はゲリラ戦で対抗します。精鋭の誉れ高い第一海兵連隊は損耗のあまりの高さに、陸軍部隊と交替となってしまいました。しかし日本軍には「交替」はありません。ひたすら消耗が続くだけです。戦いは続いていましたが、確保した飛行場を修理して、米軍はフィリピン攻略を始めました。フィリピン戦はまだ先、と思っていた大本営は驚愕します。そしてフィリピン戦のさなか、こんどは硫黄島です。そして沖縄。「玉砕」から「一億総玉砕」へ、日本は着実に進んでいました。
 「玉砕」には後日談があります。ペリリューのジャングルで生き延びていた日本兵たちがいたのです。34名の彼らは47年に“発見”され“救出”されました。しかし、彼らの帰国のエピソードは、非常に苦いものでした(「鬼畜米英」よりもっと残酷な人たち(それも同胞であるべき日本人)がいたのです)。
 私はふと思います。威勢の良いことを言い立てて戦争を望む人がいますが、そういった人は「玉砕の島」の“現実”をバーチャルでも良いから体験しておくべきではないかな、と。


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