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2015年03月17日07:04

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社会に無知な人

 教師は、学校を卒業したら学校に就職します。そして生徒たちに「お前たちは社会を知らない」と言い放ちます。自分たちだって「学校」以外を知らないのに。もちろん生徒の父兄(まさに「社会」で生きている人々)から「社会」を学ぶ教師もいるでしょうが。
 検事や裁判官は、学校を卒業して司法修習を受けたら裁判所や検事局に就職します。そして人々に「お前たちの生き方は社会的におかしい」と言い放ちます。

【ただいま読書中】『ニッポンの裁判』瀬木比呂志 著、 講談社現代新書2297、2015年、840円(税別)
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 著者は三十三年間勤めた元裁判官で、だから裁判制度の“現場”について非常に詳しい人だということになります。
 世間一般の常識では「裁判官はまず事実認定を行い、ついで法律や過去の判例に照らし合わせて結論を下す」となっています。著者もそう信じていたそうです。ところが「法が固定したもの」というドグマを疑った「リアリズム法学」という思想があるのだそうです。そこでは「裁判官が法を“素材”として用いて、自分の判断で法を変更あるいは新しい“法”を創造する」と考えられているのだそうです。アメリカのプラグマティズムの影響が強いこの思想を唱えた代表格の学者はアメリカのジェローム・フランクですが、その主著『法と現代精神』の出版は1930年なんだそうです。本書の著者瀬木さんも、プラグマティズム的考え方に親和性があるそうで、だからリアリズム法学の影響も受けているそうです。
 最高裁が用いるレトリックには「韜晦型」と「切り捨て御免型」があるそうです。どちらも「粗暴な論理」の展開ですが、前者は結論を正当化するために延々と説明が展開され、後者は都合の悪いことには一切触れない、というやり方です。どちらも判決文を「日本語」に“翻訳”してみたら、そのおかしさがよくわかる、と具体的な例が挙げられています。そしてその「おかしさ」は、「法」ではなくて「裁判官の総合的な人格」から生み出されている、と(「法」は最初に直感的に出された結論を正当化するための“手段”として使われているだけです)。
 著者は民事裁判の裁判官だったからでしょう、刑事裁判については“内部”(同じ司法の世界の人間)であると同時に“外部”の人間としても見ることができるようです(逆に民事のトンデモ判決については判断が甘いのですが)。
 「人質司法」「冤罪は国家の犯罪」「日本の刑事司法のあり方はあきらかに異常」「三権分立など絵空事」などと強めの言葉が並びます。そして「見込み捜査」。日本文化では「事実」よりは「物語」の方が人気があるので、「証拠」よりも「自白」が偏重されるのではないか、というのが著者の推定です。
 日本の裁判官は「独立」しているはずですが、実際には最高裁判所の事務総局によって“管理”されているのだそうです。ただしその管理手法は、身内の雑誌や協議会を通じるという、外部の人間にはまず見えない巧妙なやり方となっています。フクシマ以前に「原発は安全で事故なんか起きない」判決が続出し「危険だ」という判決はわずか2例しかありませんでいたが、著者によれば「しか」ではなくて「2例もあった」のだそうです。しかもその裁判官はどちらもすぐに裁判官を辞めています。つまり、著者によれば、「最高裁は原発容認」だった(そして日本中の裁判官はそれに逆らえないようにシステムがなっていた)、となります。
 行政訴訟や住民訴訟でも「これが民主国家の裁判か」と言いたくなる実態が明らかにされます。「自分は権力者なんだ」と言いたそうな最高裁の判決文(とそれに対する著者の解説)を読まされると、げんなりします。本来は三権分立で、立法・行政の監視をするべき司法が「権力の走狗」に成り下がっているのですから。国民を相手に威張り散らして本人たちは快感なのかもしれませんが、走狗は走狗で、どこからも尊敬されなくなるだけなのですが。
 一種の「内部告発」の本です。ただ「内部」とか「告発」とかにだけ注目するのではなくて、その内容に注目をするべきでしょう。司法が腐ったら、国はおそらく倒れますから。


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