mixiユーザー(id:235184)

2015年03月01日07:25

855 view

「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」は形式論ではありません

 これは「人に疑われるようなことをするな」という生き方の格言ですが、大切なのは「疑われなければ何をしても良い」「ばれなければ何をしても良い」と言っているわけではない、ということです。「自分で自分を恥じないように生きる」ことが一番大切。
 現在国会で問題になっている「政治と金」での“反論”を聞いていると、「瓜田に履を納れていないし、李下で冠を正してもいない。収穫をした農家に部下が行ってそこでもらったのだから、問題はない。問題があるとしても、部下が勝手にやったことで自分は知らないからやはり問題はない」と言っているように聞こえます。「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」は「自分で採る恰好をしたかどうか」だけを問う、単なる形式的な手続き論ではないんですけどね。

【ただいま読書中】『旧約聖書外典(上)』村岡崇光・新見宏 訳、 関根正雄 編、講談社文芸文庫、1998年、980円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061976427/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4061976427&link_code=as3&tag=m0kada-22
 キリスト教の「旧約聖書」とユダヤ教の「ヘブル語聖書(ヘブル聖典)」は、内容は同じですが、構成が異なっています。紀元前二世紀、ユダヤ本土以外に住んでいたユダヤ人に「ギリシア語に翻訳された聖書」の需要が高まりました。この時エジプトでコイネー・ギリシア語に翻訳された聖典が、旧約聖書の御先祖様です。面白いことに、紀元1世紀末にユダヤ教正統派が「正典」を決定してそれ以外の文書を異端の書として禁じましたが、「旧約聖書」にはその「異端の部分」も含まれているのです。これがすなわち「旧約聖書外典」。つまり「ユダヤ教の昔の姿」はキリスト教の聖書を通して見ることができるわけです。
 本書には「第一マカベア書」「ユデト書(抄)」「トビト書」「三人の近衛兵」「ベン・シラ」が収載されています。
 「第一マカベア書」はアレクサンドロス大王の世界制覇で始まります。大王の死後「世界」は臣下に分割されました。その中で「ギリシア化」をしようとするユダヤ人の一派が生じます。シリアのアンティオコス王はエジプトを占領し、ついでエルサレムに入城します。ユダヤ教は弾圧されますが、正統な信仰を守ろうと荒野に逃れたマタティアスの一派は、戦って信仰を守ろうとしました。マタティアスの死後その息子のユダが有能な指揮官としてゲリラ戦を継続します。激しい戦争が続き、ユダの軍は勢いを増しますが、シリアを滅ぼすまでには至りません。そこに新興勢力としてローマが登場。ユダはローマと同盟条約を結びます。面白いのは、ここにクレオパトラが登場すること。もちろん“あのクレオパトラ”ではなくて同名の別人ですが、似たあるいは同じ名前が次々登場すると、私は頭が混乱します。イスラエルはスパルタとも同盟を組みシリアに対抗しようとします。エジプトもそれに絡み、戦いは延々と続きます。
 「ユデト書」も戦争物語です。アッシリアのネブカドネザル王が〈西方の諸国(小アジアからエジプトまでの諸国)〉を侵略しようとホロフェルネス将軍を指揮官とする大軍を派遣しました。ユダヤ人は徹底抗戦の構えです。山の上に建設されているベツリアの町は包囲され、水を断たれてしまいます。水不足に苦しむ指導者は降伏を考えます。そこで立ち上がったのが、聡明で美しい未亡人のユデト。彼女は美しく着飾りホロフェルネスの陣を訪れます。相手に自分を口説くように仕向けて、隙をみてホロフェルネスを殺してしまう作戦です。神に守られた文明人と欲望で動く野蛮人との戦い、といったところでしょうか。
 「トビト書」「三人の近衛兵」は、ユダヤ教がどのようなものかを伝える物語です。こちらでは戦争は出てきません。最後の「ベン・シラ」は、イエスという人の知恵の言葉をその孫がヘブル語からギリシア語に翻訳したもの、だそうです。イエスと言ってももちろんイエス・キリストではありません。同名別人が多くてちょっと困ります。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年03月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031