mixiユーザー(id:235184)

2015年02月14日07:33

358 view

視察の効果

 大災害の後、天皇陛下が避難所に訪問をしているとき、迎える被災者が涙ぐんでいる姿を時々見ます。
 ところで政治家が避難所に訪問をしているとき、迎える側が感激で涙ぐんでいることって、どのくらいありましたっけ? なんだか政治家が「俺はちゃんと“仕事”をしているぞ。カメラはちゃんと撮っているか?」と胸を張っているだけのように私には見えます。

【ただいま読書中】『小倉昌男経営学』小倉昌男 著、 日系BP社、1999年(02年13刷)、1400円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4822241564/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4822241564&link_code=as3&tag=m0kada-22
 著者の父が興したヤマト運輸は、様々な会社から出る小口の荷物を組み合わせてトラックの定期便で運ぶ「路線トラック」で戦前に急成長しました。戦後、社会の変化(特に道路事情の改善)で長距離トラック便が伸びましたが、ヤマト運輸は戦前の成功体験から関東ローカルに閉じ籠って時代に乗り遅れていました。そのころ入社した著者は長距離に進出しますが、すでに他社に主な荷主を押さえられていました。利益率の低さに悩んだ著者は、小口の荷物の方が(集配の手間はかかりますが)運賃は高い(つまり利益率が改善する)ことに気づきます。
 まず労働生産性を改善しようと著者はいろいろな手を打ちます。トレーラー・運転手の乗り継ぎ制・荷物用パレットなどを次々導入し、「人が遊んでいる時間」を減らします。さらに勉強を続け、「マーケティング」「業態」「全員経営(労使が共同で経営をする)」ということばと出会います。
 実際の経営で著者は「多角経営」を目指しました。しかし会社はますます苦しくなります。そのとき出会ったのが「吉野家の牛丼」。メニューを単品に絞って、経営効率を向上させる戦略です。そこで著者は「多角経営」の実効性に疑問を抱きました。いや、リクツは確かに合っています。しかし、ヤマト運輸では“結果”が出ていないのです。かくして著者は1974年ころから「家庭からの小口運送に“メニュー”を絞り込めないか」と考え始めました。しかしその分野には、郵便局以外に民間業者は参入していませんでした。それには大きな理由があったのです。どこから需要が発生するか・どのくらい発生するかがまったく不定です。荷物はすべて小口ですから集配の効率は最悪です。しかし著者が調べると、当時郵便小包は年間1億9千万個、国鉄小荷物は6千万個ですから「市場」はけっこうな大きさです。
 まずは「集荷」です。「郵便局」は作れませんから、各地の米屋・酒屋を取次店とするアイデアが浮上しました。輸送は「ハブ・アンド・スポーク」(県庁所在地を幹線輸送路でつなぎ、そこから各所に配るシステム)。そして、事業免許。当時のヤマト運輸のトラック運送事業免許は仙台から福岡の間だけで、それ以遠をカバーするためには新規免許取得が必要だったのです。これがのちに運輸省との“戦い”のもとになります。
 おっと、その前に、会社内を説得しなければなりません。「家庭の荷物に特化」という著者の提案は、役員全員の反対に遭いました。しかし著者は、労働組合を味方につけて最終的に全員の賛成を取り付けます。では実現化ですが、著者がそこで参考にしたのが「JALパック」です。「旅行」を商品として売り込む、というのは、当時は斬新なアイデアでした。同じように「気軽に荷物を出せる」という「商品」を売り出そうというのです。ともかく反対を一つずつ潰していき、昭和51年2月に東京23区と関東の市部を対象に「宅急便」の営業が始まりました。そして営業範囲と荷物の取り扱いが伸びていった昭和54年、著者は二つの大きな営業的決断を下します。三越と松下との契約終了です。安定した大量輸送を切って背水の陣です。著者があきれたのは「宅急便の成功」を見て、各社が続々と新規参入してきたことでした。それも35社も。宅配はネットワーク事業ですが、そういったネットワーク構築もせずに参入するとは……とあきれはしますが、放置もできません。差別化のために著者は三箇年計画を立てます。「ダントツ3カ年計画」と名付けられた運動は、つごう3回おこなわれましたが、3回目の「ダントツ3カ年計画パート3」では「社員福祉 年間休日100日以上」が入っているのが私の目を引きます。ともかく、最初の「ダントツ3カ年計画」の重要目標は「全国ネットワークの構築」でした。ここで登場した「反対者」が運輸省です。著者は“正攻法”で免許を申請し、不可思議な理由でそれが棚晒しになると行政訴訟を起こしました。運輸省は慌てます。何年も棚晒しにした理由を説明できないのですから。ちなみに著者によると「ヤマトが監督官庁にたてついたのではなくて、運輸省がヤマト運輸のやることにたてついたのである」だそうです。あきらかに「不法で不当な処置」ですから。なお「行政との戦い」には第二回戦があって、運輸省はヤマトを困らせるために運賃認可をわざと遅延させていますが、この時には著者は訴訟ではなくてマスコミを使ってそのやり口を大々的に公開してみせる、というやり方を使っています。1994年にはこんどは郵政省です。簡易書留430円の時代にクレジットカードを350円で配送するサービスをヤマトが計画したら郵政省が「信書の配送は郵便法違反」と言ってきたのです。で「クレジットカードが信書? なら、告発してくれ」とヤマトが言うと郵政省は「240円の配達記録サービス」を売り出してきた、というお話です。
 労働組合にも経営に参加してもらう「全員経営」も珍しい試みですが、そのためか「宅急便のサービスを年中無休でやろう」と提案したのは労働組合からだったそうです。わざわざ労働強化を言い出すとは驚きですが、そこには「仕事から得られる喜び」や「経営陣に対する信頼感」が大きく作用していたのではないか、と私は想像します。だからこそ著者も「休日100日」をわざわざ“返歌”として言うわけでしょう。
 ヤマト運輸は宅急便で「成功」しました。それは「イノベーション」を実行できたからですが、その原因は「失敗」をしたからだ、と言えるでしょう。失敗は辛い体験ですが、「自分が失敗したこと」から逃げずにそれを認めそこから学ぶ人には成功のチャンスが与えられることがある、ということなのでしょうね。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年02月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728