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2015年02月13日06:56

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ウクライナの停戦合意

 15日から停戦する、と関係者が全員合意したそうです。
 二つ疑問があります。
1)停戦合意が守られることの、担保は?
2)ロシアは「自分たちはウクライナに侵攻していない」と主張していましたよね。それなのに「停戦に合意」するのは、なぜ? 「無関係な善意の第三者」でしょ?
 ともあれ、本当に停戦が守られますように。

【ただいま読書中】『日清戦争 ──近代日本初の対外戦争の実像』大谷正 著、 中公新書2270、2014年、860円(税別)
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 東アジアは「中国に対する冊封関係」で維持されていましたが、西洋列強が「条約による外交」を押しつけることで、「冊封」と「条約」の二重関係が維持されるようになりました。1876年に日本は朝鮮と「日朝修好条規」を結びますが、ここで「朝鮮は自主の邦」と定義した上で不平等条約を押しつけました。しかし朝鮮は清との冊封関係も維持しました。江戸時代の琉球のことを私は思います。欧米も朝鮮と条約を結ぼうとしましたが、その交渉相手は清でした。開化政策に対する朝鮮国内の反感は強く、さらに軍に対する米の支給が13箇月も遅延したことから82年に「壬午軍乱」が起きます。清は機敏に反応し軍を出動させ結果として宗主権を拡大しました。84年に日本の竹添公使が親日派を刺激してクーデターを起こそうとしますが、清軍に潰されます(甲申政変)。長州派は穏健な解決を望みますが薩派は武力解決を主張し、民間ジャーナリズムも開戦を主張して沸騰し、トップの伊藤博文は苦しい立場に立たされます。しかし平和解決を望むイギリスが清を説得し、両国の軍が朝鮮から引くことで妥協が成立します。しかし、欧米列強の朝鮮への影響を恐れた日本は、こんどはロシアの朝鮮への進出に対抗する策を考え始めます。かくして、奇妙な形ですが、日本と清は対ロシアで“協調”を始めます。もっともロシアは、無理して朝鮮進出してもメリットがない、と考えていたのですが。清は、特に海軍を充実させていました。日本は軍備の点で立ちおくれ、あせって充実させようと年間国家予算を上回る要求をします。
 1894年に朝鮮では甲午改革がおこなわれました。これは、日本に従属して清に対抗するという側面と、朝鮮の自主的な近代化という二つの面を持っています。それに反発する(反日・反開化)農民軍が決起します(日本で同じことが起きたら「尊皇攘夷一揆」とでも名付けることができそうです)。甲午農民戦争です。清は宗主国として、日本は在留日本人保護(と清に対する対抗)を目的に軍の派遣を決定します。日本軍は朝鮮軍と共同して農民軍の包囲殲滅作戦を展開しました。犠牲者の数は不明ですが、3〜5万人の間のどこか、という推定値が本書で示され、「日清戦争」で最大の犠牲者は朝鮮で発生した、と述べられています。ともかく内乱は終息。派兵された日清両軍がお互いの気配をうかがいつつ対峙することになってしまいます。日清両政府の内部では、どちらでも開戦強硬派と開戦回避派がそれぞれ複雑な政治折衝をおこなっていたのでした。李鴻章は行動の自由を奪われ、最悪の行動(戦力の逐次投入)をせざるを得なくなります。それは日本から見たら明確な開戦の意思表示でした。
 日本軍は朝鮮王宮を包囲攻撃し、国王を捕虜にします。ただし日本側の資料では「攻撃を受けたから正当な反撃をしただけ」となりました。どうして王宮からの“攻撃”が日本軍に届いたかは不明です。ともかくこれで「開戦」です。しかし日本では直後に「対戦国」として朝鮮を外して清だけに絞ったため、戦争の名前は「日清戦争」となり、王宮の戦闘で死んだ日本軍人は「戦死者ではない」ことになってしまいました。明治天皇は不機嫌です。突然「開戦詔書」にサインを求められたのですから。軍は、制海権が確保できたら北京に一気に迫って決戦を挑んで短期間で勝利する、というシナリオを書きましたが、結局制海権は確保できず朝鮮を主戦場に選びました。ところが輸送手段が足りません。軍馬は不足し大八車も日本から運ばなかったため現地で朝鮮人を徴用しますが逃亡が相次ぎ困り果てた、という陣中日記が紹介されています。軍司令官の命令を待たず第5師団は平壌を攻撃しますが、食料を2〜4日分しか持っていなかったため命令をのんびり待っていられなかった、という事情があったのかもしれません。それにしても十分な食料を持たずに城攻めは無謀です。ところが平壌を守る清軍は、何を思ったのか城を出て日本軍を迎撃しようとして同士撃ちを演じてしまいます。なんというか、ぐだぐだの戦いです。じっと籠城していたら、歩兵が背負った分しか兵糧弾薬がない日本軍が苦しくなっただろうと思えますが、清軍の志気もひどく低下していて長期戦は無理だったのかもしれません。
 そして黄海海戦。それまでの海戦では衝角(ラム)による体当たり攻撃が常識でしたが、ここではそれがすでに時代遅れであることが示されました。また、日本軍艦に装備された小口径の速射砲は兵員殺傷には有効ですが装甲艦を沈没させることはできないこともわかりました。ここで損害を受けた清海軍は港に引きこもり、日本軍の黄海を通過しての海上輸送が可能になります。
 当時の鉄道は青森から広島まで線路が結んでいました。そこで大本営が広島に設営され、帝国議会も一週間だけですが広島で開かれます。
 陸軍は中国領に入りますが、ここで登場する指揮官たちは皆独断と独走の人たちばかりです。手柄争いで作戦計画を無視して好きなところを攻撃します。源平時代の先陣争いですか? 戊辰戦争や西南戦争の経験者には、恐いものはなかったようです。そして旅順攻略。日露戦争とは違ってわりとすんなり占領ができてしまいます。このときの“成功体験”が日露戦争では足を引っ張ったのかもしれません。なお、日本ではあまり知られていませんがこのとき「旅順虐殺事件」が起きます。日本軍に同行していた欧米ジャーナリストや各国の観戦武官は、日本軍が敗残兵を捕虜にせずに殺したり民間人も平気で殺すのを見て驚きました。それは文明世界の新聞などに報じられましたが、時間と場所は限定されています。それが中国側では「旅順で死んだ人間はすべて虐殺の犠牲者」としてカウントされることになりました。参謀総長有栖川宮は大山司令官に「旅順でおこなわれたと報じられた、無差別殺人・捕虜の殺害・略奪」について釈明を求め、大山は「略奪は否定。無差別殺人と捕虜の殺害は肯定」した上で様々に釈明を加えた具申書を提出しています。これには、日本が世界に「日清戦争は、日本の『文明戦争』である」と発信していたことが大きいようです。不平等条約を改正するために「日本は極東の野蛮国ではなくて、文明国である」と主張したかったわけ。だけど「上の思い」は「下」には通じていなかったようです。
 日本に不都合な報道は規制されました。そのため、新聞紙上では伏せ字が頻出し、発行停止になる新聞も数多くなります(笑っちゃうのは、官報を転載したらそれを理由に発行停止になった新聞があることです)。しかし、外国人居留地で発行される外国語新聞は規制できませんでした。また、規制するだけでは、新聞と国民の戦争協力が得られません。そこで大本営に、現在の記者クラブの前身が作られました。
 “戦後”には、下関で李鴻章が暴漢に襲われたり、日本に割譲された台湾ではそれに反対する勢力が独立を叫んでそれに日本が出兵したりしていますが、著者はそれも「日清戦争」に含めて論じています。この戦争は「小さいけれど複雑な戦争」だったのです。三国干渉は起きるし朝鮮では反日親露政権が誕生してしまい、イギリスの反対を押し切って開戦したため以後の支持が期待できなくなってしまいます。戦闘には勝ったが外交では敗北した戦争だったようです。なかなか「戦争に勝つ」というのは、難しいことのようです。


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