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2015年02月11日07:04

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ラフマニノフ

 ラフマニノフのことを私は「ロシアの作曲家」と思っています。「ラフマニノフのピアノ協奏曲2番ハ短調」の出だしなど、いつ聞いても背筋がぞくぞくします。
 ところがロシア革命から逃れてアメリカに亡命してからは、彼は作曲家ではなくてほとんどの時間が「ピアニスト」だったのだそうです。なんとiTunesStoreに「Rachmaninov Plays Rachmaninov」というアルバムが何枚かありました。うわあ、買おうかなあ、どうしようかなあ、激しく迷ってしまいます。録音が古いから、音質はどうか、なんてことも気になりますから。
 ところで、どうして作曲をやめてしまったんでしょうねえ。

【ただいま読書中】『ラフマニノフ ──その作品と生涯』C・I・ソコロワ 著、 佐藤靖彦 訳、 新読書社、2009年、2500円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4788060191/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4788060191&link_code=as3&tag=m0kada-22
 セルゲイ・ワシーリエビッチ・ラフマニノフは1873年、古い貴族の家に生まれました。音楽の才能に満ちた一族でラフマニノフも幼少時代から音楽の才能を示しますが、実家は破産。しかしそのおかげで(貴族が行くべき陸軍の貴族幼年学校ではなくて)音楽学校に行くことを許されます。モスクワでピアノ教師ズベレフの内弟子となり、厳しいレッスンを毎日受け訪問客の前での演奏などをしますが、その客の一人がチャイコフスキー! ズベレフのおかげでラフマニノフは音楽学校で優秀生徒となり奨学金を得ます。87年ころから作曲も始めます。作曲でもすぐに才能を示しますが、この頃の作品の特徴はロシア的な響きだそうです。90年頃にはピアノ演奏と作曲で注目されるようになり、音楽理論の教授で生活費を稼ぐようになります。そして異例の“飛び級”で音楽学校を卒業し、91年夏にピアノ協奏曲第1番が生まれます。これは聴衆や評論家に絶賛されますが、ラフマニノフ本人は満足せず1917年に改訂版が出版されます。音楽院時代の作品についても著者は細かく考察をし、随所にチャイコフスキーなどの影響を見ますが、それはあくまで影響であってラフマニノフの“本質”の発露させる邪魔にはなっていないそうです。ただの物まねではない、ということ。そう言えばピカソは「良い芸術家は模倣をする。偉大な芸術家は盗む」なんてことを言っていましたっけ。
 1897年「交響曲第1番」。著者は「古代ロシアの芸術に端を発した叙事詩的本質がはっきりとあらわれている。内容とスタイルの多くは独創的で斬新で、古い聖歌の旋律の本質を再現している」とほとんど絶賛ですが、当時の聴衆はそれを理解せず評論家には酷評され、ラフマニノフはこの曲を一生涯封印してしまいました。さらにその時の精神的打撃で、以後3年間作曲活動を停止して鬱々と過ごします。
 ラフマニノフは、当時の人々に絶賛される作品には不満足で、自分が自信を持って送り出した作品は不評、というちぐはぐな扱いを受ける天才でした。ピアノ協奏曲第2番の第1楽章も、初めての試演のときには聴いた人には不評だったのだそうです。しかし作曲家自身の指揮で演奏されたこの曲は、やがて世界に受け入れられ世界を魅了し世界を動かすようになります。ラフマニノフの名声は、地球規模で高まります。しかしラフマニノフは、古いロシア民族芸術を発掘してそれを自分の内部で変容させるという手法をとり続けました。当時の流行は「モダニズム」でしたから、ラフマニノフが進むのは「彼だけの特別な道」でした。
 ロシア革命が起きます。自由な気質の芸術家として皇帝の専制政治に反対していたラフマニノフは革命を歓迎しますが、17年冬にモスクワが危険となったために一時的な待避のつもりでスウェーデンへの巡業に出かけます。しかしそれは祖国との永遠の別れでした。家族を連れてアメリカに渡り、ピアノ演奏のツアー契約を結びます。都市から都市へ、ほとんど分刻みのスケジュールの中でラフマニノフは厳しい練習を続けピアノの腕を上げようとします。聴衆は常に「新しい曲」も求めますからそちらの練習もしなければなりません。作曲をする暇はありませんでした。「世界一のピアニスト」という評判を得、ラフマニノフはアメリカになじみます。しかし彼は自分の家にはロシア人を集めようとしていました。8年が経ち、ラフマニノフは契約を1年間結ばずに作曲に専念しようとします。取り組むのは協奏曲第4番。これはラフマニノフのピアノ協奏曲の集大成、と著者は述べています。ただしそれが理解されるようになったのは20世紀半ばになってからだった、と。スイスにお気に入りの別荘地を見つけ、そこでラフマニノフは「パガニーニの主題によるラプソディ」に取り組みます。そして戦争が。ドイツ軍のロシア侵攻に心を痛めたラフマニノフは、ソ連政府に募金や物資を送ります。そして、アメリカ国内で活動がしやすくするために、渡米して25年目にしてついにアメリカ市民権を取ることにします。43年2月1日でした。彼が死んだのはその直後でした。ロシアの偉大な音楽家、そして、地球の偉大な音楽家として彼は生き、そして死んだのです。そして彼の心の奥底には常に「ロシア」が存在していたようです。


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