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2015年02月07日07:23

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反撃された

 先に攻撃したのは、どっち?

【ただいま読書中】『情報大名・朽木昌綱』小出進 著、 講談社、1994年、1553円(税別)
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 享保五年(1720)八代将軍吉宗は「洋学解禁(キリスト教に関係ない西洋の書物を漢訳したものなら輸入を許可)」をしました。「鎖国の変容」が公認されたのです。
 朽木昌綱は寛延三年(1750)福知山藩の江戸藩邸で誕生しました。箱崎霊岸島の中屋敷で育った昌綱は、箱崎界隈に多く住んでいた蘭学者たちとの交流を深めました。ただし、東寺の蘭学者の多くは医者でしたが、昌綱は大名(の子)でしかも興味の中心は西洋の経済や世界地理、という変わり種でした。江戸に参府したオランダ商館長ティチングとも交流し(ティチングが離日してからも文通を続け)、『新撰銭譜』や『泰西輿地図説』といった専門的な研究書を刊行します。ティチングもまた、昌綱からの貴重な日本の情報を活用して日本学の権威となることができました。
 昌綱は藩主になったのは遅いのですが、それまで気軽に出歩いては蘭学者や古銭収集家、オランダ通詞などと交流していました。身分制度の厳しい封建社会では、実に珍しいことです。寛政十年(1798)にオランダ正月に集まった蘭学同好者の余興として当代蘭学者の「番付表」が作られました。勧進元は大槻玄沢と桂川甫周、年寄りは前野良沢と杉田玄白ですが、番付の真ん中に「立行司」として「福知山候」と朽木昌綱が書かれています。当時の蘭学の世界では、朽木昌綱は欠かせない人、という認識だったのでしょう。
 朽木昌綱の「情報整理」は合理的です。人に会う場合には事前に相手について調べます。そして話をする場合には平等に扱います。だから身分が違う人間が集います。さらに情報は細かくメモを取りそれを整理して再利用がしやすい形に分類し独自の索引記号をつけて保存します。江戸時代にコンピューターがあったら、さっさと活用しそうな勢いです。
 昌綱は藩内に目安箱を置き、領民の実情を知ろうとしていました。そこで得た情報をもとに、寛政四年には漆の木の育成を奨励しました。
 ……なるほど、本書のタイトルが「蘭学大名」ではなくて「情報大名』であるわけです。しかも、単なる西洋かぶれや情報一辺倒の人間ではなくて、人情に厚く日本画や茶の湯でも腕は一流だったというのですから、きっととても魅力的な人間だったのでしょうね。
 「文明開化」は江戸時代にすでに準備ができていた、というのが私の持論ですが、朽木昌綱もまたその一例であるようです。福知山藩にとってはそれほどの明君ではなかったようですが、もしかしたら「藩よりは日本」という観点から昌綱が動いていたのかもしれません。


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