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2014年12月04日06:49

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請負

 復讐請負、なんて物騒な人がネットにいるそうですが、もうちょっとバーチャルな「丑の刻参り代行」なんて人もきっといるのでしょうね。ただ問題は、「丑の刻参りは誰にも見られてはならない」わけですから、請け負った人はどこにどうやって「自分はちゃんとやりました」と報告したら良いのでしょう?

【ただいま読書中】『儒学殺人事件 ──堀田正俊と徳川綱吉』小川和也 著、 講談社、2014年、2800円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/406218933X/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=406218933X&link_code=as3&tag=m0kada-22
 元禄四年(1691)将軍綱吉は林家の孔子廟を上野から湯島に移し、儒学によって世を治める意気込みを世に示しました。綱吉の儒学好きは有名で、聖堂訪問・儒学講釈・儒学書の出版などを次々おこないました。しかしこの動きは、同時代の荻生徂徠には「儒学が講釈師の飯の種になっただけで、現実の政治に対する影響力を失った」と見えました。ただし荻生徂徠がその批判を『政談』で明らかにしたのは綱吉の死去後でした。
 江戸城内での刃傷沙汰は7件。有名なのは赤穂浪士のきっかけとなった「松の廊下事件」ですが、同じ綱吉治世下にもう一件「大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に暗殺された事件」がありました。登城した正俊を正休が脇差しで突いて致命傷を与え、直後に駆けつけた人びとが無抵抗の正休を滅多切りにして殺してしまったのです。徳川光圀はその処置を非難しました。どうして生かして捕えて事情を聞き出さなかったのか、と。実際に他の江戸城内での刃傷では犯人はすべて自刃するか切腹となっています。「その場で成敗」はこの時だけ。なにか特殊な事情のにおいがします。
 「正俊が殺されたのは、実は悪人だったから」と言う人も多くいましたが、その根拠は「殺されたから」であることが多いのは、笑えます。きちんと追究しようとしたのは室鳩巣で『鳩巣小説』に事件を巡る新井白石との会話を記録に残しています。世上の「正休は忠臣」説とは違って、白石は正俊を高く評価し、事件は正休の私怨によるもの、と断じます。正休が自分の大きなミスをかばってくれと頼んだのを正俊が断ったからだ、と。さらに白石は、綱吉と正俊の確執についても触れます。ただし、そちらについては断言を避けます。
 著者は様々な文献から、仁政の経験を持つ堀田正俊が「名君とはかくあるべし」という確固たる理念を持っていたことを示します。対して綱吉は藩経営の経験もないまま将軍になりましたが権力志向がとても強い人物でした。さて、このような大老と将軍の関係はどのようなものになるでしょうか。想像するのは簡単ですが、根拠を欠いた想像は妄想と紙一重になってしまいます。何らかの根拠や論拠が必要です。それを著者は、様々な文献から得ようとしています。そして、正俊を煙たく思った綱吉が、大老の職を免じようとしていた、正休は将軍の命でその工作に動いていた、と考えています。これは私の想像ですが、「工作」に失敗した正休が“将軍に対する責任”から殺害を実行したのではないでしょうか。つまり“真犯人”は、綱吉。
 綱吉の施策で著者が注目するのは「改暦事業」と「儒学振興」です。そのどちらも「朝廷の権威を幕府が奪う行為」と見ているのです。そういった「やる気満々の君主」が「明君」であるように諫言を続けた正俊は、もしかしたら最初から死を覚悟していたのかもしれません。ただの根拠のない想像ですが。


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