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2024年03月29日05:19

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弘井文子歌集『紙ひかうき』

2024年4月、六花書林刊。「短歌人」のお仲間の弘井文子さんの第一歌集。

弘井文子さんは島根県にお住まいの方で、毎月の「短歌人」の歌会などで顔を合わせるというわけにはゆかないのだが、僕にとっては「短歌人」の中で特に親しくお付き合いさせていただいている方々の一人である。というのは、2008年の夏に長谷川知哲さんが呼びかけて発足した「新人会」(のち「子(ね)の会」に改称)の最初からのメンバーどうしだったからである。

ネット上にブログを持っておられてそこでのハンドルネームは「文(ぶん)」さん。最近はあまり記事を書かれていないが、かつては頻繁に記事を書かれていて、僕も時々コメントを入れていたりした。また、知哲さん主宰のネット歌会(「切磋歌会」というタイトルだった)や「新人会」のネット歌会でも長くご一緒してきて、そうした場では常に「文さん」と呼んでいたので、ここでも以下「文さん」と書かせていただく。「弘井さん」とか「文子さん」ではどうもしっくりしないのである。

そんな具合で、文さんと顔を合わせる機会は「短歌人」の新年歌会や夏の全国歌会、あるいは「新人会」が毎年4月に行なっていた吟行合宿の時ぐらいで、それも毎回というわけにはゆかなかったのだが、ネット上ではつねにやりとりをしていたので、ご無沙汰していますという感じにはならず、いつも隣に文さんがいるような感覚があったのでした。そんな隣人が出された第一歌集である。

「あとがき」の末尾に一行、「これからも悦びをもって短歌を詠います」と宣言されている。その言や良し。文さんの歌は鬼面人を驚かすようなものではないが、飽かず歌を詠み継ぐことによって日々の暮らしをいっそう味わい深いものにしている、そんな作者像が思われる作品群である。

以下『紙ひかうき』より10首。

冗舌がノンストップとなる昼下がりくちびるはふるへやまざる肉片

…喋り出すと止まることを知らず、聞き手がどんな反応をしていようがお構いなしに一方的に喋り続けるお方というのが時におられるが、そんな相手につかまってしまった。次第に相手が何を喋っているのかはどうでもよくなって、まあ、まあ、よく動くくちびるだこと、というようなことだけを思っている。4句〜結句がその消息を巧く伝えている。「ふるへやまざる」だから、そのくちびるは痙攣しているかの如くである。哲学癖のある読者なら、現象学的還元がなされている歌、とか言い出すかも知れない。

ははそばの母は裸身のうち深く卵を抱きてうつくしかりき

…〈戻る場所ではなく訪ねる場所となる海辺の町よ母十三回忌〉から始まる一連の中に置かれている歌なので、若かりし頃の母の回想だろう。したがって「うつくしかりき」と過去形で結ばれている。先日、〈母はいま眠り給ひぬ乳(ち)の辺りくらげ、われから、夜光虫あつめ〉(安斎未紀)という一首を引いたが(*)、その乳の力をもたらすものが身の内に抱かれた卵だろう。(ルビがないが「卵」は「らん」と読むのがいいと思う。)僕もその昔、卵を抱く性に生まれなかったのは残念だ…と思ったりしたことがあった。
(*)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987233069&owner_id=20556102

たれもたれもをらぬ座敷に掃除機をかけカーテンをひけばおしまひ

…先行する歌から、お正月に血縁のひとたち九人がわが家にやってきて蟹などいただきました、という宴が終って後、というシチュエーションであることがわかる。さきほどまで此処に集っていた九人はそれぞれ帰途について、ひとりのわれに戻った。ざっと掃除などをして、やれやれ…という場面だ。結句末尾「おしまひ」に、安堵感、充足感、そして寂寞感がうまくブレンドされている。

さくら花芽はもも色ならむ熱の子を抱けばかろしかろし一歳

…今年の桜は予想よりも開花が遅れているようで、東京近辺も、そして文さんの住む島根県も、ちょうどこの歌のような状態だろうか。しかしここでは「もも色ならむ」と推量で言われていて、実際に花芽の様子を見ているわけではない。熱の子を抱いているので外に出るわけにもゆかず、花の様子を見てみようというような余裕もない。上の句からそうした次第を看取することができる。この歌の少し前に置かれた一連からすると、この「一歳」は文さんのお孫さんで、娘さんが仕事から帰るまでの間、預かって子守りをしているという場面のようだ。「かろし」のリフレインが直截に心細さを伝えている。

目が覚めてしまつたからには今日の服着て眉をひき珈琲たてる

…初句〜2句が印象に残る歌だ。寝過ごしてしまってもいいから安楽に暮らしたいところ、しょうがないね、目が覚めちゃったよ。あるいはもう少し深く読むと、一夜の睡眠がそのまま永眠になってもよろしいと思っていたのに、まあ、そういうわけにもゆかないんだよな、と。そうして今日も今日とて一日の暮らしを始める手順を踏んでゆくのである。が、この初句〜2句は、こんなふうに戯言を言いながら、よし、今日も無事に目覚めたぜ、というこころを籠めているのかも知れない。そう思うとなかなか含蓄に富んだフレーズのように思えてくる。

道なかにずだぶくろ様のものありてほぐれて猫となりて去りたり

…道路で寝ていた猫はいかにもずだぶくろのようであった。眠りから覚めて間違いなく猫の姿となって立ち去って行ったよ、という場面を巧く詠まれている。あれ? 何だろう? ずだぶくろか? と見るうちにそのずだぶくろ様のものはほぐれて…というのである。「ほぐれて」という言葉の選択が効いている。

人界に来たりて六十日の子が稲佐の浜の風にくしやみす

…生後六十日の可愛らしい赤ちゃん、という歌ではない。七つ前は神の内というが、七つどころではない、たったの六十日だ。まだあの世のものともこの世のものとも定まっていない危うげな存在である。「稲佐の浜」は出雲の浜で、陰暦十月に全国のやおよろずの神がこの浜に上陸するのだそうだ。そんな“神在月”のシーンだろうか。吹いてきた風は神々の気配にしてこの子はくしゃみを以て挨拶したのだろうか。それなら危ういこともあるまい。などと読むのは読み込みすぎだろうが、「稲佐の浜」という固有名詞はそんな楽しい想像の方にも読者を誘ってくれる。

ニンゲンを操ることの快楽の寒いから今日はこれを着なさい

…一読、「ニンゲンを操ることの快楽の」は「寒い」を導き出す序詞であろう、と読んで、なるほどいかにもと思いつつ、しかしまたこんなふうに「寒いから今日はこれを着なさい」と命じて従わせるというのは、「ニンゲンを操ること」にほかなるまい、とも思えてきて、ユニークな循環をなしている一首だ。

散歩して歌詠みヨガをし花を植ゑやがてはひとの世話になり死なむ

…わたくしはこんなふうに暮らしています、そしてこの先の見通しはこんなふうです、という次第を具体的なシーンを並べて詠まれている。注目すべきは4句〜結句だろう。最後はひとの世話になるだろうか、とぼんやり思っていてもそれを明言するのは何か憚られるところ、文さんは率直にこんなふうに言う。しかり、われら皆ケアされつつ生まれてきて、何がしかのケアを他者に対してなして、そしてまたケアされつつ生を終る。岸本聡子さんが述べていたように(**)、ケアは誰にとっても大切なもの。それをしっかり自覚して臆さず言われているところに惹かれる。
(**)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987164742&owner_id=20556102

ノーコーセッショクダメと言ふ子がちよつかいを先に出した子みんな笑つた

…この歌集はどのような方針で編まれたのかについて作者は何も記していないのだが、最近の「ノーコーセッショク」の歌が一冊の終リ近くに掲出されているので、おおよそ制作順に歌が並んでいるのだろうかと思った。この歌は「短歌人」2022年11月号掲載の拙稿「発信の場所と角度」(***)で引いたことがあった。今から振り返れば“大変だったあの頃”ということになるのだろうが、そんな時にもこのようにしてあちこちにみんなが笑い合う場面はあった。そうしたことも忘れずに詠み留めておくのも短歌の役割のひとつだろう。
(***)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983618918&owner_id=20556102

なお、ネット上ではすでにお二人の方が(僕が見た限りでは、だが)この歌集を紹介されている。
↓「暦日夕焼け通信」2024.3.25
http://rekijitsu.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-e2cec9.html
↓「こぎいでな」2024.3.26
https://tonbitei.exblog.jp/242119097/


【最近の日記】
中井守恵の歌(補遺)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987260526&owner_id=20556102
子供問題研究会のサイト
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987254139&owner_id=20556102
馬場あき子「いのちを見つめて〜時々いのちのことを思った歌」(NHKカルチャーラジオ)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987247514&owner_id=20556102
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