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2020年01月06日07:45

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本棚239『地中海幻想の旅から』辻邦生(中公文庫)

 年始に実家に帰った時、柔らかな潮風を感じながら、燦めく明石海峡大橋や月の照らす水面を眺めて走っていると、体の内から生気が湧き上がってくる気がした。日々の生活から離れることで、自身が再生される幸福感は、異国への旅をテーマとしたこのエッセイ集と通じるものがあるだろう。

 時に葡萄酒色に時に紺碧に染まる地中海、春の花の香りを湛えたフィレンツェの甘美さ、夢幻の如く揺らめく焔が路地を照らすアッシジの祭礼、様々な人生が露わになるパリの下町の雑踏、冷たい朝霧に包まれた果てしないロシアの白樺の森、時の風に吹かれた渺渺たるハドリアヌスの長城ーどの地からも辻の上気したような興奮が伝わってくる。

 特にギリシアは、古代の美を啓示され、作家の道へと足を踏み入れるきっかけとなった場所であり、筆も熱を帯びる。過ぎゆく時に対峙する人間。儚さが照射する生の輝き。ひたすらに美しい文章からは、辻作品全体を貫く思想が感ぜられ、辻邦生の原点に触れられた気がした。

 「ギリシアの墓碑には死者の国へ旅立ってゆく者が、生前愛した人々、愛好したものと別れを告げる場面が彫られている。そこには告別への慟哭はなく、ただ無限に静かな透明な悲しみがあるだけだ。春の暮方、花の散るのを見るような、甘やかな憂愁が濃く漂っているのである。 私はこれらの墓碑の持つ悲しみから、逆に、古代ギリシア人がいかにこの生に深く憧れたかがわかるような気がした。それは、太陽や微風や海の青さや木々や家を、なにか地上の奇蹟のように感じて愛していた人々の、痛ましいこの世への告別の眼ざしなのであった。」
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