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2019年08月12日21:24

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「これ以上、短歌を作って批評する必要はあるのか?」

8月5日の記事「批評綱領」?(*)で言及した「現代短歌」2019.7の誌面に、何人かの方が5月12日の「つどい」に参加されての感想をお一人一頁ずつ書かれている。

(*)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1972505664&owner_id=20556102

その中で都築直子さんの「これ以上、短歌を作って批評する必要はあるのか?」というタイトルの一文がちょっと異色で印象に残った。

都築さんの文章は前段で《玉城徹はカリスマである。かの分厚い『左岸だより』を一気読みしたときも思ったが、もし歌人存命時に短歌を始めていたとしたら、ミーハーな私は「玉さま追っかけ隊」とでもいうものの一員となっていただろう》と記している。

おお、なるほどそうか…と思いつつ僕の感想はちょっと異なる。1980年代の頃、僕はまだ短歌に関心がなく、政治的あるいは社会的な運動の近辺にいた。あの頃は「綱領」みたいなことを言い募るひとに惹かれる心性があって、いわゆる党派には入らなかったが、党派の周辺にいたことはある。だから、もし当時の僕が短歌に関心を持っていたら、「綱領」とか言う玉城さんに寄って行ったかもしれない。そうだとしたら、それは「ミーハー」というよりは思想的な親近性みたいなものを感じてのことだったのではないかと思う。今の僕は、そういう発想は敬して遠ざけたいと思うが、そのあたりに僕のものの考え方の変遷があるのかも知れない。

というようなことはともかく、都築さんの文章の後段では次のように書かれているくだりがあった。

[以下引用]

たとえばこういうことはないか。粗削りだがユニークな歌を作っていた入門者が、歌会参加を重ねるうちに、お行儀がよくて面白味のない歌を作るようになった、ということが。あるいは、歌会にはまるで出てこないけれど、あの人の歌はいつも読ませる、ということが。

[引用終り]

似たようなことを僕も何人かのひとから言われたことがあった、と思い出す。選者に採られたとか採られなかったとか、短歌や俳句のひとたちはそういうことを気にしすぎる、選者が何なんだ、あなたの詠いたいことを詠うというのが一番だいじなことなのではないか、と言ってくださった詩人のTさん…etc.歌会にもいろいろとあるが、それぞれの歌会にはこのような作品が良い作品だという共通了解事項のようなものがおのずと存在していて、その場で良く評価されたいというモチーフを第一に立てると、無意識のうちにそのモードに乗ってゆくことになるだろう。選者に採られようと思って詠んだら駄目、そういうことをすると歌柄が小さくなる、と言ってくださったHさん…etc.

ただし、逆もある。〇〇さんは歌会には出ないというポリシーらしいけれど、歌会でいろいろと言われたらもっと良い作品が生まれるのでは…? と思うこともないではない。そのあたりは単純には言えないが、たぶんその根っ子のあたりで言えることは、自作に対して出された批評に右顧左眄しているようなていたらくでは表現者とは言えないよ、というようなことなのだろう。都築さんの文章を読んでそんなことを思った。


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